とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

20160919

福岡市より、内陸のほうに入るので、

今回の台風(16号)は大したことなかった。

ちょっと風が強いかな、くらい。

それなのに、福岡市や、沿岸部で暴風警報が出ていたため、

高校生の息子は臨時休校。

9時ごろ、小学生たちはぞろぞろと学校に向かっていたのに。

 

昨日、図書館に行って、リクエストしていた

メメント・モリ

 

を受け取ってきた。

実は、これは、雑誌に掲載されたときに、図書館に行って

その場で読んだのだが、やっぱり、ハードカバーよねぇと。

ちょっと待ったなぁ。予約順を待っている人が結構いたので。

それから、通勤のお伴に文庫を一冊。

新編 日本の面影 (角川ソフィア文庫)

 

あれ?表紙が違う。でも、角川ソフィア文庫

 ラフカディオ・ハーン小泉八雲さんのことだが、

私が小泉八雲さんの怪談と出会ったのは、

小学2年生の頃だと記憶している。

耳なし芳一』というタイトルの本で、中に、何作も

怪談が入っている低学年向けの本だった。

耳なし芳一」は、強烈な印象だったが、

鳥取のふとん」が忘れられない。

そして、小泉八雲さんが日本人ではないと知った時の驚き!

 

数日前に、さだまさし氏のライブの動画で、

小泉八雲の『日本の面影』に、微笑みについて

書かれているということを知り、

興味が沸いたので、借りてきた。

外国からきて、日本を気に入って、

日本人と結婚して…という人が、

当時の日本をどのように見ていたのか、気になる。

もちろん、その当時のことなどは、私にとっても、

知らない日本であるからして…。

 

あと、二冊借りてきたが、これらは、自分のためではない。

一冊は娘のために編み物の本。

もう一冊は、これも、人に紹介するために前回借りていた

ドリアン助川氏の本。

 

実は、昨日、『葬送』を辞書を引き引き、104頁まで読んだ。

自分にとっては、早すぎもせず、遅すぎもせず、いいスピードだ。

今、ドラクロワがA・ティエールの家に出掛けているところ。

ドラクロワの絵を、ネットで確認しながら読んでいる。

ネットって、こういうところは便利だな。

ショパンの曲も、どんな曲かすぐに聴けるし。

でも、そんなことしなくても、この世界に入り込める読者も

いらっしゃるのだよなぁと思うと、大変羨ましい。

私なぞは、ドラクロワの絵を検索し、ショパンの曲を検索し、

そのうえ、わからない言葉や、読めない漢字まで調べながらの

読書となるので、ほんとにもう、時間がかかるったらない。

しかし、久しぶりに、メモを取りながらの読書は、

ゆっくり、その世界観を楽しめているので、

それはそれでよし…としよう。

それにしても、わからない語彙をそのままスルーして

今日まで生きてしまった結果、

語彙力の貧困さを目の当たりにすることになり、

読書好きです、とか、平野氏のファンですとか、

公言は、控えようと心に決めた次第である。

 

ときどき、声に出すと、この人の作品も、リズムがいいなぁ

ってことに気づく。心地よいリズム。

昨日、NHKに2番組もでていらしたので、

どちらも見たが、語り口調が落ち着いていて、素敵だ。

朗読された広島での音楽会のものも見たが、

あんな感じで『葬送』を読んでもらっている気持ちになって、

少しずつ、読み進めているのである。

台風のおかげか、かなり秋っぽい風が入る夜。

落ち着いた読書の時間がとれて嬉しい。

秋!大好きだよ~!

 

 

20160915

そういえば、木曜日に図書館に行ったのだった。

娘が借りていた本を全部読んで、

デイケアの時に読む本がないというので。

 

私は借りていた本を返し、

2枚組CD♪ショパンな一日と、

図書』の7月、8月号と、

葬送と並行して読もうと思って、

 f:id:yomyomtommy:20160919071035p:plain

こちらを借りてきた。

モノローグは、もう、何度か借りてきて、

あちこち読んでは返し…している本。

アマゾンでは初エッセイ集となっているが、

『文明の憂鬱』のほうが先に出ていた記憶が。

 

この『モノローグ』のⅢ自作解題の中にある、

『葬送』について のたった4頁のために借りてきた。

というのも、なかなか読み進められない『葬送』を、

何とか読破したい!と思っているから。

これまで、何度も借りては返却を繰り返した『葬送』の

ハードカバーを中古で手に入れはしたが、

返却期限もないということもあって、

読もう!という気持ちが続かないもので、

夏の課題に決めたものの、この夏の猛烈な暑さとともに、

原稿用紙二千五百枚というボリュームからも圧され、

結局、読み進められないまま。

 

ショパンを嗜む』を読んだ直後は、これはいける!

と強く感じ、ショパンの曲をあれこれ聴きもしたにもかかわらず、

いまだ持って、一部の頭のほうをウロウロしている。

 

『モノローグ』の『葬送』について

新潮社の月刊誌 波 に掲載されたエッセイなのだが、

平野氏が、この作品をどのような意図をもって書かれたか

を読み取ることが出来る。

また、準備段階から4年ほどを費やしたこの大作について

向かい合う毎日の孤独さが窺えるのだが、

それについて、平野氏はこう書いている。

―――自分の全身全霊を傾けて取り組んでいる仕事が、

ただ独り自分にのみ有益であり、他人のためには全く無益である

という時、人はその孤独に耐え続けることが出来るでしょうかーーー

 

平野啓一郎氏は、なぜか、デビュー当時から、

どこか惹かれる作家であった。

彼の作品を追いかけて18年ほど経つが、

この『葬送』を読めていないというのは、

ファンとしては、残念すぎる。

平野氏が、この作品を書くための下準備に1年ほどかけたそうなので、

私もこの作品を読むために、いろんな方向からアプローチを試み、

気持ちを高めて、グワーッと、作品にのめり込みたい。

 

毎日は、雑多なことが多くて、なかなか深く入り込めないところが

悩ましいところではあるが…。

いっそのこと、ハードカバーは置いておき、

文庫を購入すれば、通勤の伴として、読み進められるのでは

と思いもしたが、いやいや、これを電車の中で読むのは

私には無理…。

 

とにかく、『葬送』について を読んだことで、

読みたい気持ちをさらにアップさせることに成功した。

あとは、時間を上手く工面すれば…。

ってことで、今日から明日にかけ、台風16号が近づくようなので、

ショパンに会いに行くかぁ。

 

今日は、娘のために予約していた本が準備できていると

連絡があり、通常休館日の月曜だが、祭日と重なり

開館日になっているので、10時きっかりに図書館に行く予定。

 

苦海浄土の二回目

もう、明日には3回目の放送が・・・。

金曜日の夜、録画していた2回目をようやく観た。

 

近代を「人格」として捉える。

ここが、第2回のポイントであったろうか。

 

人間が、楽な暮らし、豊か(と見える)暮らしを求めた結果、

見落とされた安全。

そして、原因がわかってからも、しばらく放置されたという現実。

その楽な暮らしを手放しで喜んできた私たちにも、

実は責任があるのだということに、ううむ…とうならされた。

 

高度成長期の、さまざまな公害だけにとどまらず、

現在を考えてみる。

自然を壊しながら、人間だけが、突き進む文明の進化。

番組を観ながら、あぁ、このことは、あれにもつながる、

これにもつながる。そして、自分にも責任がある…って。

 

とくに、安全でないことが分かってからも、

結局有機水銀を流し続けた、だれも止めなかったというところは、

今の原発の問題と、全く一緒ではないかと。

あれが、危険なものだということは、東日本大震災の時に、

思い知らされたはずなのに、どうして使い続けるのか。

そこに、『苦海浄土』で近代の闇への警鐘は、活かされていない。

現在稼働している川内原発は、水俣市から50キロと離れていない。

 

立ち止まる、スピードを落とす、時には逆行(に見える)する

その勇気を持たねばならないという伊集院光氏の言葉を、

自分の中にも、しっかりと刻み付けておこう。

〝個〟であることの難しさとともに。

 

あと、患者を番号で呼ぶということに関しての

若松氏の説明も、聞き逃してはいけない部分。

人が、人を番号で呼ぶとき、「量的」な扱いしかされず、

「質的」な扱いを受けることがない。

つまり、そこで「私」という人格は無いことにされる

ということなのであろう。

いまや、私にも、家族にも、この国の人たちすべてに

番号が振られている。

このことについても、疑問を投げかけるべきなのでは、と思う。

今更…と、放置されることは、危ういことだ。

無花果

二週間ぶりに薬院Muffinさんとフレラボさんに行った。

知人にプレゼントした薬院Muffinさんの無花果のMuffinのことが

ずっと気になっていて、

フレラボさんの無農薬無花果がどんなものか

食べてみたいと思ったので。

 

子どもの頃、庭に一本だけ無花果の木があって、

祖母が好きだったように記憶している。

何度かもいで食べさせてもらったことがあったろうが、

私は桃のほうが好きだと言ったような気がする。

もう、40年以上前の記憶。

 

近所に、無花果の木が植えてある家が2軒あって、

実がなって、色づいてくるも、

次に気が付いたときは、その実はなくなっている。

その家の方が食されているのか、鳥が食べているのか…。

 

スーパーに産直品で売っていることがあるが、

いいお値段するので、手を伸ばしたこともない。

記憶にある生の無花果は、ちょっと癖のある香りで、

じゃりじゃりしていて、柔らかすぎるほど柔らかい。

甘みはあるが、ぼんやりとした甘さ…なのである。

あの味を、とても好きそうに食べていた祖母のことを、

横目で見て、無花果はお年寄りの食べ物だな、

って、私はきっと思ったに違いない。

 

知人が、とても好きみたいだったので、

これは、この時期に美味しい無花果を食さねば!って思って、

6個入りを買って、二人で分けた。

冷蔵庫に入れて、ちょっと冷えた無花果を、一人で食べた。

手で剥くことのできる皮、熟れた桃のよう。

うむ…美味しい。

食べながら、祖母を思い、

無花果がおいしく感じられるほど年を取った…」

と思ったが、それは、幼い私の勝手な思い込みだな。

 

一つ味わって、旬の果物を食すって幸せだなぁと思う。

やっぱり、旬のものは美味しい。体が喜んでいる。

 

薬院Muffinさんでは、前回買わなかったビスコッティと、

4種別々のMuffinを、家族用に買った。

今日買ったのは、二種のチョコレートとバナナ、レモンクリーム、

ティラミス、今月のMuffinである栗。

無花果Muffinは、今回は生を買ったので、パス。

仕事から帰って、子どもたちとコーヒータイム。

おかげで、夕食を作りたくなくって、

簡単にベーコン&ホウレンソウのペペロンチーノ。

 

3連休を前に、ちょっと贅沢しちゃったなぁ~。

でも、後悔はしていない(笑)

だって、今週はチョキチョキバリバリを頑張ったも~ん。

 

久しぶりに徹夜した

14日は、パートのお仕事から帰って、

内職の仕事を始めたが、

まー、細かいというより、嫌がらせか?と思うほど

生地に癖がある小さなパーツだった。

数も400と、いつもの倍近くあって、途中からもう、

笑いたくなるほど、残りの生地が減らなくなった。

実際は、コンスタントに仕事ははかどっていたのだけれど、

終わりのめどがなかなかつかなかった。

結局、一睡もできず。

 

で、パートはお休みだったけれども、

毎日の内職はもちろん、あるのであ~る。

Kちゃんの病院と、図書館と、食品の買い出しの予定があって、

車を運転するのに、寝てないのはまずいね、と思い、

細切れの睡眠時間を朝のうちに2回、

病院から帰ってから食後午睡を多めとった。

4時ごろFしゃんを迎えに行って、

図書館と買い物という一日だった。

そして、夕方から、内職が始まるわけだが・・・。

 

今日中でなくても良いと言われて受け取った内職。

今日は初めてのものではなく、何度も作業した事のある

やりやすくて好きなパーツだったので、

全部仕上げるつもりはなかったけれども、

結局、さっきまで続けて、全部終わらせた。

 

なんでそこまで…とS氏に笑われたが、

こういうところが、私のマゾっぽいところである、

と自覚もあるのである。

 

若くないので、徹夜は堪えるだろうと思ったが、

大学生の期末テストで英語のテスト勉強を徹夜でやり、

テストに臨むも、眠すぎていかん、

ってときよりは、まだ、楽だった。

15分の睡眠は、結構頭をすっきりさせてくれる。

 

とはいえ、やっぱり二日続けて睡眠が不足気味だとよくないので、

内職が終わったらさっさと眠りましょ~って、思ったけれど、

なかなか横になれないのであった。

 

昔(10代から大学を卒業するまで)読んだ本のことを、

あれこれ、思い出しながら、作業をしていたからか。

自分の人格形成に絶対影響しただろうと思われる

本たちをピックアップしたら面白いだろうと、

考えていたら、目が冴えちゃった。

 

さすがに、このまま今日も眠らないのでは、

明日の仕事に支障があるだろうから、

眠らなきゃな。

 

中秋の名月も見えない夜、

今日も結局作業を前倒しでやった~!

私の人格を形成してくれたであろう本のことは、またの機会に記事にしよう。

ちょっと覚書として・・・

『十五少年漂流記』『あぁ、無情』『ビルマの竪琴

『兎の眼』『二十歳の原点』『塩狩峠

 

おやすみなさい

内職終えて、満足して眠ろう。

本のことを考えて、眠れないかもしれない予感はあるが…。

 

ながら作業

今日も、日が変わってしまった。

先週から、内職の量が多い。

ベビーウェアの仕事なので、仕事が増えるということは、

赤ちゃんが大勢いますよってことで、

喜ばしいことである。

赤ちゃんは、周りの人を幸せにする。

うちのトイレにある、ターシャ・チューダーの日めくりカレンダーによると、

完璧なものなんか、そうそうない。

完璧なものは今開いた花と、

生まれたての赤ちゃんくらい

・・・ってなことが書いてある。

赤ちゃんばんざい!である。

頑張って、チョキチョキバリバリを続けるのだ。

 

チョキチョキバリバリの作業をしている間、

最近はよく、PCで音楽を鳴らしている。

時間を計るためでもあるのだが、

自分の持っているCDの中から、『わが祖国』を聴いていることが多い。

スメタナ:わが祖国

 

このCDはチェコ・フィルのものだが、

指揮者はヴァーツラフ・スメターチェク氏。

ノイマンクーベリックといった指揮者のものが好みの人が多い中、

私は、この燻銀っぽい指揮者の Má Vlast が好きである。

 

と、横道にそれてしまった。

それで、作業中はよく曲を流しているのだが、

この頃は、もっぱらショパンである。

でも、ショパンのCDは持っていないので、

Youtubeさんを利用している。ショパンノクターンばっかりとか、

エチュードばっかりとか、プレリュードばっかりとか、

そんな集め方をしたものから、有名どころを集めたものとか、

いろんなものがUPされているので、利用している。

夏の課題だった『葬送』を読み上げるってことが、

出来なかったので、秋の課題に持ち越しなのだが、

ショパンの曲をずっと聴いていると、

有名どころ以外にもあれやこれや、沢山の曲があって、

ショパンって人は、いろんな色を持っていたのだなぁと思う。

 

そんなショパン尽くしを聴いていると、

その動画が終わったあとで、急に別の作曲家のピアノ曲が流れたりする。

ショパンの曲は、有名どころぐらいしか知らなかったのに、

「あ、ショパンじゃないのに変わってしまった」

と思うくらいまでになった。

 

さっきから、「クラシックピアノ知っておきたい定番曲メドレー」

なんてのを聴いている。

選者の好みもあろうが、24曲中、7曲がショパン

さすがピアノの詩人って言われているだけはある。

ピアノ曲なんて、山ほどあろうに…。

次に多いのが3曲でベートーベンなのだが、

24曲聴いていると、

ちょっと、ショパンのこと好きすぎじゃない?と思うほど。

そして、知っておきたい定番の中には、

これも、動画をUPした人の好みなのだろうなぁ

と思われる曲が別の作曲家を挟みながら流れてくるのである。

ショパンの曲とは知らずに聴いていた曲も、

今では、しっかり、ショパンの曲という認識が出来ている。

 

ストーリーテリングで良く感じる、

ある語り手のもつ、何かしらの共通したテーマというか、

単なる雰囲気かもしれないのだけれども、

「あの人っぽい」というのが、ショパンの場合多すぎて、

「あの人っぽいような気がするけど、違うかしら?」

な、印象である。

だけど、今聴いているいろんな人のピアノ曲があれこれと

流れると、やっぱり、ショパンの曲はショパンっぽいのである。

それぞれの曲に、共通したものなんかなくても。

本当は素人には解らないだけで、音楽の専門家は解るのかもしれない。

 

今日は、いろんな曲を聴いた。

作業がいっぱいあったから。(笑)

実は、ショパンピアノ曲の中で、好きなものが沢山あるが、

ほかの作曲家の曲を加えて、その中から好きな曲を選ぶとしたら、

ピアノ曲だと、ドビュッシーの月の光だな。

短調な曲が好きなはずなのに、月の光はそうじゃない。

だけど、なんというか、一人ぼっちで自然の中で

月を見上げているそういう静けさが、

ちょっと高めの明るい、キラキラした曲の中から感じられて好き。

ドビュッシーの曲は、キラキラと、輝いてる様子が目に浮かぶ。

凪いでいる海面に月明りがキラキラしている様子みたいな。

それから、ちょっとキンキンしているけれども、

リストのラ・カンパネラもなんか苦しくって好きだ。

あと、ピアノ曲ではベートーベンの悲愴の第二楽章も外せない。

ショパン、ごめんなさい。

でも、随分と、曲のことは覚えてきたけれども、

やっぱり、ピアニストでかなり違うんだろうなぁと思う。

こんど、ちょっとCDを探してみよう。

 

『葬送』といえば、やっぱり、ピアノソナタ第2番(作品35)を

聴かねば始まらないので、探していたら、

マルタ・アルゲリッチの演奏のものがあった。

大変抒情的。

そして、こういうのは、秋がいいなぁと思う。

つまり、『葬送』を読むには、今しかない!ってこと。

 

チョキチョキバリバリ作業が、いつまで多いのか、

さっぱりわからないが、この涼しくなった夜に

『葬送』を読まなきゃ!!

でも、今日はもう遅いので寝なきゃ。

おやすみなさい。

11日

飛行機がビルに突っ込むという衝撃的な映像を見た日から

15年が経とうとしている。

あの時の、アメリカの報復ムードが不気味だったと思い出す。

昨夜は、ペシャワールの会の中村哲医師が、

アフガニスタンでの用水路建設の記録という

NHKスペシャルを見て、「希望」ってあることを確信した。

憎しみからは何も生まれない。

中村医師の行動力は、アフガニスタンの農民の行動力へと

つながっていき、人々は、用水路から得た水によって、

暮らしを取り戻している。

タイトルにもある『武器ではなく、命の水を』が、

人間が生きていくうえで、必要なものを表している。

中村医師を突き動かすものは何なのだろうと考えると、

そこには、命を守る医師であることと、人間への愛しか

なかろうと思われた。

たったそれだけのことだが、中村医師にはそれだけで十分

用水路建設を実行に移す理由になり得たのだなと。

そして、それは、きっと、当たり前のことではない。

当たり前の事だったら、世界中から飢餓なんてのはなくなるだろう。

中村哲医師は、福岡の人で、

昨日は、福岡市内で講演会が実施された模様。

夕方のニュースでそれを知り、

そういう人の話を実際に聴くという自分のアンテナが

うまく機能していないことに気づく。

自分の心の中に、余白が少ないのである。

これはとっても、危ういことだ。

 

ところで・・・11の並びを見るとやはり、

5年と半年の前の3・11を忘れてはならない。

あの震災で、多くの人たちが、

被災した人だけでなく、何もできずにいる遠くの私のようなものでも、

生きていくって、なんだろう?と、考えさせられる

きっかけになったはずだった。

でも、実際はどうだろうか?

あれから、私は何か、変わることが出来たろうか?

 

昨夜、内職をしながら

Eテレで未来塾で、東北の高校生が、

熊本の被災地でいろいろ体験をしているのを見た。

小学二年生の時、実際に被災した子どもたちが、

防災のプロを目指すということに、たくましさを感じた。

テレビでその映像が流されているから

そういう風に映るというわけではなく、

頑張って生きている人がいっぱいいることを知る。

 

久しぶりにさださんの曲を聴きたくなった。

♪主人公 や ♪風に立つライオン、

♪HappyBirthday あたりを。

Youtubeで探していたら、たまたまだが、

2011年9月23日に石巻市の復興イベントでさださんが

ミニライブをやっている動画があって、

1時間弱の映像を見ることが出来た。

その中で久しぶりに聞いた歌 ♪いのちの理由 が良かった。

たしか、テレビで二度ほど聴いたことがあり、

中学生だった息子が「いい歌や~」と漏らしたのだが、

タイトルがわからないままだった。

 

生きているのに疲れた人の背中をやんわりと支えてくれる

そんな歌だと思う。

浄土宗の宗祖法然上人800年大遠忌を記念して

さださんに依頼されてできた曲らしい。

法然共生(ともいき)イメージソングの曲だそうだ。

さださんが「僕は浄土真宗なんだけど」って話していたのも

印象的だった。

私が生まれてきた訳は~の繰り返しが優しく耳に残る。

「「幸せになるために誰もが生まれてきた」というフレーズは譲れません」

というさださんのコメント(浄土宗のHPで読みました)も、

うむうむと読ませてもらった。

実際に歌われているのが「幸せになるために誰もが生まれてきたんだよ」

という優しい呼びかけだというのも嬉しい。

曲が作られたのは、東日本大震災の前年だけれど、

震災に遭われた人、津波で家族を亡くされた人に、

優しく寄り添うような曲であると思う。

日本人の笑顔は、心づくし、心遣いから生まれるという

小泉八雲の文を交えたエピソードにも惹かれた。

 

胸のもやもやが晴れずに書き散らした感満載の

一昨日の記事を、もう一度読み返してみた。

やっぱり、こう・・・余白がないなぁと反省。

 

たぶん、その場で言葉が出てこなくって、

伝えられないということに、かなりストレスというか

プレッシャーを感じている。

言葉にしなきゃ伝わらないけれども、

何を言っても、自分が思っていることとは

どこかずれてしまうような気がするのだ。

口から出てくる言葉は…。

言い訳になるが、それで、できたあの文章である。

個人的な、それも、読み手が限りなく限定的な文章になるが、

あれを読んで、全く関係のない人も、

その背景を想像し、思いを巡らしてくれるというのも、

悪いことではないと思っている。

 

本当は、直接しっかりと伝えなきゃいけないんだろう。

でも、やっぱり、その場で自分の心にピタッと来る言葉を

発することは容易なことではない。

そこで発した言葉が、自分の心の中に地雷として

埋め込まれることだってある。

人間は、忘れることで救われている部分が多々あると思うが、

相手が忘れても、自分のほうは忘れられなくて、

自分自身が傷ついていくということもある。

 

11日、生きてることについて、優しさということについて、

心の中の余白について、考えながら、洗濯物を干した。

答えが出るのは死んだとき…亡き大分の祖母の言葉を思い出す。

答えが出なくても、焦る必要はない。

ただ一日一日を、淡々と、自分に正直に生きるべし。