とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

野口英世

最近とんと読まなくなったジャンル「伝記」。
伝記の中でも、偉人伝は、ほんと読まなくなった。
昨年、子どもの修学旅行前に、永井博士の伝記を読んだけれども、
それ以降、このジャンルは読んでいない。

子どもの頃、姉と私の本が並ぶ本棚は、
くっきりその傾向が分かれていた。
自分が物語の本を買いそろえ、なぜか姉は偉人伝ばかり…。
野口英世 (ポプラ社文庫―伝記文庫)
こんなの。
今はないけれど、ポプラ社の子ども伝記全集というシリーズだったと思う。
そして、もちろん、そこにあるので読むのであるが、
今度は私も!ということにならなかったのはなぜだろう?

ちなみに、姉が持っていた偉人伝の人物…
野口英世湯川秀樹エジソン、キリスト、ヘレン・ケラー豊臣秀吉
そして、急に判型も字も大人っぽくなってキュリー夫人
こうやって見ると、例外はあるが、姉は科学者に興味があったのか?
と思ってしまう。
姉は全く違う方へ行ってしまったけど。
調べていたら、見つけた。
ヘレン・ケラー (ポプラ社文庫―伝記文庫)
これは文庫だけれど、姉のハードカバーもこの絵だった。
やっぱりポプラ社だな。

今思うと、当時は、人の一生というよりは、物語として読んだのだなぁと思う。
現実であるということは、全く考えずに。
本当は、偉人伝を読んで、おお!こんな人に私もなりたい!とか、
こういう生き方をしたい!とか、思いそうなものだが、
自分の中ではそういう感想は全然なかった。
ただ、それぞれに、印象深いエピソードがあった。
野口英世博士が、幼い時、囲炉裏で大やけどをして、
指がくっついてしまい、母親が自分を責めるエピソードとか、
その指を切り離す手術を請け負ってくれる先生が見つかった場面とか、
湯川秀樹博士が寝っころがっていて、はっぱの影の中で、
はっぱの重なりの間から降り注ぐ光より、素粒子という概念が云々
というエピソードとか、
ヘレン・ケラーの、有名な”water!”の瞬間とか。

今読んだら、また違うことを感じるのだろうが、
どうも偉人伝・人物伝を読もうという気持ちになれない。
なぜなんだ?

で、いまだに不思議だったのが、
野口英世博士は、子どもの頃、野口清作という名前だったのに、
いつ英世になったのか?
そもそも、名前を変更できるのか?
ネットだと、こういうこともあっという間に調べられるのが、
便利でもあるが、知ってしまって、調べなきゃよかった…
というような理由だったのがなんとも残念だ。
千円札を見るたびに、思い出しそうで、哀しい。