とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

生まれて死ぬということ

昨日、たまたまETV特集を見た。
『生き残った日本人へ −高村薫 復興を問う−』
(高村さんの高、正しくは、はしご高表記)
という番組。90分、あっという間だった。


高村薫という人が、『レディ・ジョーカー』とか『マークスの山』の
作者ということは知っていたが、女性であることも、
阪神淡路の震災で被災したことなど、
全く知らなかったので、一日本人としての彼女の思索を、
すんなりと聞くことができた。
受け入れるかどうかは別として。
彼女のように、公に自分の思いを伝えることは、
大変なことだなぁと思う。とくにTVは。
私のように、たまたまチャンネルを変えていたら出くわしたという人も
いると思うから。勇気のいることである。


復興とは、日本再生とはどういうことなのか。
特に、被災地から離れた九州に住んでいる私のような人間には、
一年前の震災からの被災地が今どうなっているか、
毎日気にかけようとも、なかなか知る術がない。


震災の後、私たちには何ができるのか…ということを考える前に、
被災してもいない遠い地でさえ、言い知れぬ虚無感だとか、脱力感だとか、
未来への不安とか、そんなことでいっぱいになった昨年の春。
しかし、あの大きな震災そして、原発事故は、
この国に住む人として、いや、人間として、
大きな課題を与えたということは、誰もが思ったはずで、
では、やはり、自分はどうなのかということを、
考えなければならないだろうと思ったし、
ここが、今が、変わりどころであろうと思った。


番組の中で、阪神淡路の震災後、何が変わったかという質問に対し、
高村さんが答えた、生きるということと死ぬということは、
いつも、すぐそばにあるというような発言をされたことに対し、
すごくすんなりと受け入れることができた。
震災の直後、地震速報からずっとTVにかじりついて
津波の様子を見ていた自分には、
人間の無力さだけが映っていたが、
それも、自然の摂理であるように思えるようになった。
生き物は生まれ、そして生み、そして死ぬ。
それが、どういうきっかけでかはわからないけれど、
ずーっと昔から、それを繰り返してきているのだなぁと。
それに抗っても仕方ないではないかと。


自分も含め高度経済成長期に生まれた人には、
豊かで楽で…そんな暮らしが当たり前になっていて、
けれど、豊かになったが故に失ったものもあるってことを、
さまざまなタイミングで知ることができた。
それでも、まだ、楽を求めてきた結果がこれだと、
震災・原発事故が知らしめてくれた。
自分たちが生んだ負の遺産を、子どもたちに残したまま、
自分たちだけ楽を生きて、子どもたちの未来への責任もとらずに、
このままでいいはずがない。
日々の生活の中で、何ができるのかなぁと考えなければならない。


TVもこういう考えさせられる番組があると、
なきゃなくていいけど、本当に要らないものっていうのは、
自分で選択して、切り捨てていかねばなぁと思う。
そして、自分が何を考え、何を選ぶのかということに、
自分なりの理念がないことにがっかりするのだった。
もう、40半ば…自分の核というか芯というか…
出来上がっていてもよさそうなものだ。