とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

のべつまくなし

ある言葉が、自分の中にすうっと入ってくる、
そういう瞬間って、あると思う。
人との会話だったり、何かの文章だったり。
言葉は、何かのイメージを描き、
そのイメージと共に、心の中に入り込む。


のべつまくなし
この言葉を自分のものにしたのはいつだったろうか。


高校生の時、中学一年の時の担任に、本をいただいた。
この本である。
二十歳の原点 (1971年)


高校生の私は、この本をよく読み進められないまま、
この本を持ち、一浪したのち大学生になった。
独り暮らしの中で、この本はいい友だちであったし、
この本、高野悦子氏の日記に、影響を受けたことや、
反発したことなどとても多い。
キャンパス紛争など、かけらも残っていない
自分たちのだらりとした学生時代に、
この本の中にいる一人の女性は、いつも何かと戦っていて、
生きるって、もっと孤独なものだと教えてくれた本。


二十代の頃、もう一冊の本にであう。この本。
シングル・セル (講談社文芸文庫)

この二冊の本に、私はしばらく心酔した。
そして、ラインを弾いたり、付箋を貼ったりして、
この二冊の中に書かれている「独り」を
自分も克服できそうな気がしていた。


『シングル・セル』の中に
――― 人間だけ、どこかが狂ってしまっているのだ。
のべつまくなしに、警報と騒音をまきちらしている。―――

という文章があって、こののべつまくなしが、
私の中に入ってきた。
けれど、こののべつまくなしをイメージするとき、
私の頭の中には、高野悦子氏の学園紛争が浮かび上がる。
延々と続けられるアジテーションや、シュプレヒコール
頭の中で浮かび上がってくる。
学園紛争なんて、テレビの映像でしか見たことないのに…だ。
そして、BGMに、なぜだかバンバンの
『いちご白書をもう一度』が流れてたりする。


と、ここまで、学生の頃日記書いたなぁと懐かしみ、
しかし、あの頃の日記を全部捨てたのは正解だった…と、
感じながら、二冊の本を手に取る。
あらら?
人の記憶って、曖昧だなぁと、
ちょっと、情けなく、哀しくなった。


二十歳の原点』をもらった日付も、
『シングル・セル』を購入した日も、奥付に記入している。
高校卒業前だったと思っていたのに、
二十歳の原点』は、高校入学して間もなくだった。
『シングル・セル』の方など、記憶は学生生協だったのに、
奥付にある日付は社会人になってからのものだった。


まぁ、いいや。
いずれにせよ、のべつまくなしは、
私のなかに、この二冊の本を思い出させる。
そして、二十数年経っても、この本二冊はどうも手放せない。
二十歳の原点』なんか、紙が焼けて焼けて、
本当に時代を感じる本になってしまった。
折角なので、この二冊のほかで、
学生時代の頃いろいろ買ったが、
引っ越しの度に手放して、今、手元に残している本。
『君たちはどう生きるか』(岩波文庫
『蛍・納屋を焼くその他の三篇』(新潮文庫
これらの本を手放せないのには、何か理由があるのだろうが、
その理由がちょいと思いつかないのは、
まだまだ自分の核ができていないせいかもしれない。