とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

めきめき

記事のタイトルをしりとりにするなんて、
我ながら面倒なことをやってるなぁと思う。

いつの間にかいい感じでしりとりのタイトルが
思いつくようになって、ここ幾記事分のしりとりには、
いい感じで繋がってるじゃないの!と思っている。
とくに、ループ→プロイスラー→ラーメンの…という
繋がりは、考えていた記事内容に、
うまくしりとりで繋がるタイトルが来たなぁと。

しかし、今日は久しぶりに字引を使った。
何を書こうか…って、そこからだから。

書きたいことがないわけじゃなくて、
書いておきたいことは色々とあるが、
これ!と決められないから、しりとりタイトルに
委ねますといった感じである。

で、「めきめき」

めきめきというのは、成長や進歩が目にみえて著しい様子
であるらしい。
前進に使う副詞なのだな。
ということは、これを、「目に見えて」と言い換えることは
できても、逆は必ずや正しいとは言えないのだな。

例えば、衰えていくさまを、「目に見えて弱っていく」
とはいっても、「めきめき弱っていく」
とは言わないように。
そうか…めきめき弱っていくって、言わないのか。
でも、これ、めっきりだと、後退でもおかしくないな。

「めきめき」と「めっきり」は近い言葉だと思っていたが
似たようなひびきの副詞でも、
「めきめき」はかなり制限があるのだな。

言葉は難しい。
本を読んでいても、言葉が巧くイメージと結びつかなくて、
自分の語彙の貧困さを痛感することがある。
子どもの頃から、本を読むのが好きであったが、
言葉を深く意識して読んだり話したりしていなかった
ということなのだろうな。
インプットできても、アウトプットが出来なくて、
自分の物に出来なかった言葉の多いこと。
脳みそは、出し入れして刺激しなきゃね。
溜めこんでも、使わなければ、持ち腐れってことになる。
それこそ、脳みそは、入れたままにしておくと、
使うことのないまま自然に消えちゃってるという、
機械のハードディスクとは違う性質をもつし。
逆に、消したくても消せないってこともあるものね。

人との会話が少ないと、インアウトの機会も
少なくなって、余計に言葉が自分の使えるものに
なっていかないようにも思う。
こうやって、パソコンでパチパチ打つときは、
特別考え込んだりせずに、気軽に打ち込んでいるが、
人と話すときは、慎重になるものなぁ。
人との会話に積極的になれない人見知りだと
そういうもんだろうかなぁと思う。

それに、最近は特に…
当たり障りのない言葉での会話が望まれているようで、
発言を躊躇してしまうことが多々ある。
会話の中で、傷つくこと、傷つけることを恐れている
人たちの、なんと多いことか。
こんなふうでは、やはりめきめきと上達することは
難しいなぁと、つくづく思うのである。

人を傷つけず、自分も傷つかず、
人間関係を繋ぎとめることに神経を使う。
そういう世の中のような気がする一方、
言葉に無頓着な人も多い世の中だ。
そのギャップに、いささか辟易していたりする。
自分の意思・主張を自分の言葉で訴え、
賛同されたり反対されたり、それの、
何がいけないことなのだろう。
また、そこで、反対されることを恐れているようでは、
なんの成長も進歩もないのではないか。

昨日、長崎原爆の日
平和祈念式典での長崎市長の平和宣言と、
首相のあいさつ文をまじまじと読んでみた。
長崎市長の日本政府批判は、当然だと思う。