とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

読書が先だったとして

ふがいない僕は空を見た

映画の方を先に見ていたから読み易かったのか、
先に本を読んでいたら、もっと映画に入って行けたのか?

5つのアンソロジーすべてに引き込まれたわけじゃなかったが、
巧い具合に映画にまとめたなぁという印象は受けた。

私には、映画のメインであった
「ミクマリ」と「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」は、
どうもあんずと卓巳の気持ちが、
本当の恋だったのか?誰でも良かったのか?っていうところが
わからなくて、
誰でもというのは、お互いの何に惹かれているのか
よく解らなかったのだが、
本の中では、卓巳という人間は、「ミクマリ」のほかの
話の中で、より解るように出来ていると思う。
だから、映画では、ただ、卓巳君を好きな女の子という感じだった
「2035年のオーガズム」に書かれた松永さんが、
映画には殆ど表れていないのが残念だった。

映画の中で凄く印象に残っているシーンというのが、
原作本の中になかったりすると、
ちょっとがっかりしてしまうところはあるが、
逆に、この場面はなぜ組み込まなかったのか?!
というものに出くわすと、
映画を観て、この本を読んで、それで初めて納得できるもの
があることに気が付く。

それぞれのキャラクターが、映画と原作とで、
これは、別人ではないか?と思う人がいなかったのも良かった。
まぁ、容姿はさておき…。

映画で字幕として使われていた本文の言葉は、
やはり本の中でも効いている。
そして、そのほかに私が気に入った文章は「花粉・受粉」の

本当に伝えたいことはいつだってほんの少しで、
しかも、大声でなくても、言葉でなくても伝わるのだ

である。
これは、恐らく、若い頃からの自分の中にある
重要な課題のように思っているテーマであったりする。

星の王子さま』の中で、キツネがいう言葉だったり、
「沈黙は金 雄弁は銀」だったり
そういう言葉に、なぜか憧れに似た思いを抱いていた。

セイタカアワダチソウの空」の話が一番泣けるのは、
良太・あくつ・田岡、この三人が本当にギリギリのところで、でもふんばっている気がするからだ。
善だか悪だか判別できかねる、この3人を応援したくなるのはなぜなのか?
登場するどの人も、すごく一生懸命なんだけれども、
どうもその一生懸命さが、危うさ脆さを含んでいるのが、
とても人間的に見えるからなのか。

団地に住む人の、コンプレックスというのについて、
そういう気持ちって、あるんだろうか?と不思議だったが、
親だったり、生まれ育った土地だったり
人は何かしら、自分ではどうしようもない
コンプレックスというものは持ち合わせていて、
それは、自分を引っ張り上げるものにも、
引き摺り下ろすものにも成り得るなぁと思う。

そういうどうしようもないものの中で、
なんとかそういう物を断ち切ろうとしてあがいている
福田良太という高校生のたくましさを、羨ましくも思う。
そして、そのたくましさが彼に備わったのは、
やはり、父親の自殺や母の家出や、祖母の存在や、
団地での貧困生活であったろう。

彼の章では、原作にない部分が映画で
加えられている部分がいくつかあり、
それが、私にはとても印象深いものであった。
施しと言われた卓巳の母の弁当を捨てるシーンや、
バイト中弁当を陳列するのに、
まるでそれでお腹いっぱいにするかのように、
弁当の匂いを深く深く吸い込むシーンや、
母の住むアパートの扉の前でのセリフなど。

でも、本を読んで強く思ったことは、
この原作の言葉のまま映画で使われているセリフが多く、
映画と原作が別物だとは思えないことだった。
もちろん、本当にそのままではない場面もあるのだが、
原作を先に読んでおけばよかったって気持ちにはならなかった。
どちらにも触れて、より楽しめたという作品は、
初めてかもしれないな…というのが感想。

「神さまは越えられると思う人にしか試練を与えません」
これは確か、渡辺和子さんの著書で読んだ物と同じだ。
聖書の中の言葉なのだろうか。
つまり、どんなに苦しくても乗り越えていけるから頑張れってことなんだろう。
これには、少し圧を感じるのだけれど、
人生って、乗り越えていくことの繰り返しのようでもある。
それを苦と思うか楽と思うか…考え方で、随分と違ってくるものだ。
いつもいつも、頑張りは出来ないけれど。