とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

何度も繰り返す

もう、いい加減、何度も何度も同じ間違いを繰り返しているので、

そろそろ学び取れよ…と、情けなく思う。

 

大勢の中にいるとき、虚無を感じ始めたのは、

小学校の6年生くらいの頃ではないかと思う。

例えば誰もいない、何もないようなのっぱらの中にいるとき、

恐怖は感じても、寂しさは感じたことがない。

だが、何人もの人たちの中に自分がいるとき、

その人たちとの間に、見えない、分厚い壁があるように感じ、

時々、寂しく思う。

かといって、その人たちの中に紛れるとか、一緒に騒ぐとかすると、

かえって、寂しさややり切れなさは増すのである。

 

21歳の時に出した自分なりの結論。

人間は独りきりで生まれて、死んでいくのも独りだ。

何かを考える時に、誰かと思いを共有することは出来ない。

だから、誰かと理解し合うことはないのだ。

 

己のこともよく理解できないのに、

他人の事なんか、理解できるはずもない。

喜怒哀楽も、全く同じ感情を共有することはない。

だから、人間は独りなのだ。

だれもが、唯一無二である。

 

それなのに、誰かに理解してもらえそうだとか、

あの人はこの気持ちが解るだろうとか、

ときどき、錯覚をし、一人で勝手に期待して

そして、そうでない事実に直面して、勝手にダメージを受ける。

初めから、やめとけばいいのに。

100%の理解などあり得ないとわかっているのに。

何度も、何度も同じ間違いを繰り返すバカ。

あぁ、本当に私、バカだなぁ。

ほんと・・・ウケル。

 

誰かに理解して欲しいではダメなんだ、きっと。

それは、欲なのだ。

 

やっぱり、人間は独りなのである。

そう、高野さんが『二十歳の原点』で日記に綴っているように、

人間は独りなのである。

それに負けずに生きぬかねばならない。

私は、高野さんのように、独りの自分に追いこまれ

死を選ぶことはしない。

逆に、独りの自分を追い込むか、独りの自分を楽しむ。

 

自然の中にいたら、寂しいと思うことがないのは、

どういうことなんだろうかと思う。

その一部として、受け入れられているからのようにも思えるし、

人間は、異質なものを知らず知らずのうちに拒否するような

生き物になったのだろう。

このベクトルで人間が進化(退化?)していった場合、

恐らく、自然にも受け入れてもらえなくなるかもしれない。

そのときは、どこででも、寂しさをひしと感じるしかない。

 

うん、もうそろそろ、間違いに気づかなきゃ。

誰かを変えようとすることも、

誰かのために、変わろうとすることも、

誰かと同じ思いを共有しようとすることも、

誰かの気持ちを理解しようとすることも、

独りで物を考える生物には、

100%を期待するのは、無駄な話なのだってこと。

 

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私の、青春時代のバイブルであった本。

もちろん、今もこの本に影響を受けている。

中学時代の担任の先生に貰った本だが、

独りで考えること、独りで生きぬくことを諦めないように、

先生は、そう言いたかったのかなぁとよく思う。

独り…それは、とても強さを必要とする魅力的な生き方だ。

この本は、これから先もずっと、死ぬまで

私のバイブルであるような気がする。