とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

追記みたいなもの

この一つ前の文章、

ちょっと、会議で神経を使ったこともあってか…

なんか、変な文章になってしまったなぁ。

 

反省。

 

親としてとか、ではなく、一個人として、

子どもたちに本を楽しんで欲しいと思うのは、

自分が本が好きで、その面白さを子どもたちに知って欲しいと思うからだと思う。

想像力とか、言葉の豊かさとか、それ以前に、

やはり、本を読むことによって、かなり救われた部分がある。

生きていくのに必要なのは生身の人間との交流だが、

それだけではないと私は思っている。

独りになって生きなければならないこともある。

自分との対話する時間は、とても必要だ。

安直に答えを出すのではなく、じっくり考えるということで、

救われる部分がある。

本を読むことは、自分と対話するようなものだし、

自分を知ることになる。

そういう時間って、人間には、必要だと思う。

それが、知性ではなかろうか。

 

本の中に、自分の知らない世界が広がっている。

時間をかけて、その世界を潜り抜けるという体験は、

実体験には及ばなくても、

その実体験すら少ない子どもたちには、

十分な体験ではなかろうか。

 

元来、子どもには、一人でいる時間があって、

その中で、精神的にはかなり成長していると思う。

ひとり遊びなんかにしてもそう。

でも、この頃は、子どもが少ないから、

どうしても親が目をかけ手をかけてやってしまい、

一人でいる時間は、子どもにはそんなにない。

そんな風にして育った子どもは、ちょっと不憫だ。

今は、一人でいる事が、寂しそうとか可哀想とかいわれるけど、

そういう時間も必要な時があるだろう?って思う。

本を読んでいる時は、結構ほおっておかれるから、

よい時間だなぁと、私は思う。

 

子どもの頃、私にはハイジという友達がいて、

そのハイジには偏屈といわれていたけど、

ハイジをとても愛してくれるおじいさんがいた。

にんじんという不幸せっぽい友達がいて、

変な家庭だなぁと思わせる両親や兄、姉がいた。

ダックス先生とか小谷先生とか魅力的な先生に教えられ、

蠅を勝っている鉄三ちゃんが住んでいる町は、

良い環境とは言えない町だけれども、

子どももおじさんたちも、それぞれ生きている感じがしたし、

裕福でなくても、とても輝いているように思えた。

無人島に漂着し、十五人の少年に混じって冒険したり、

ミリエル司教の言葉に、耳を疑ったというか、衝撃を受けた。

水島上等兵の竪琴で♪はにゅうの宿を歌い、

オウムに「おーい水島、一緒に日本に帰ろう」と教えたり…。

物語は、時々私をつけ放すことはしても、無視はしなかった。

 

そうだなぁ、物語は、普通って何かね?と、

教えてくれたような気がする。

同じ人生なんて、いっこもないんだよってことを

教えてくれたような気がする。

 

大人になって読んだ児童書をふり返ると、

これを子どもの頃読んでいたら、もっと人生を楽しめていたろうとか、

もっと人を傷つけずに、また、自分も間違わずに

良く生きることができたはずだという本がたくさんある。

その本に出逢えなかったのは、不運でもある。

子どもたちが、本に手を伸ばし、自分の核に気付く読書が出来たら…

そう思わずにいられない。

もちろん、実体験のほうが、大事だとは思っているが、

スマホで友達とのやり取りにかける時間、

それは、子どもたちにとって、かけがえのない時間なのだろうか?

 

ところで、

蝶の蛹が、気が付けば黒っぽくなっていて、

これは、羽ではなかろうか…というような部分が見えてきた。

もしかして、そろそろ羽化しちゃう??

がんばって~!

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Fしゃんが、修学旅行に行く前に、

翼を広げてくれるかなぁ~。