とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

連休の疲れ

成人の日が終わって、ホッとしている。
娘の成人の日前日は、振袖を着るやら、
写真を撮るやら、成人式(前日の日曜にあった)に出るやら、
着替えて同窓会に行くやら、
仲良し同士で二次会に行くやら…。
付き人のように車を運転し、荷物を持ち…
という長ーい一日の日曜日であった。

昨日のうちに取れなかった疲れ…。
そんな疲れを取ってくれる職場も珍しかろう。
上司である友達は、大変お話上手。
彼女と会話していると、人生だとか、子育てだとか、
社会の事なんかを深く考えるきっかけを貰う。
そして、それが、とても楽しい。

今日は、職場で昼休みに
T先生のかたりで聴いた
母親の祝福のパンと呪いのパンのことが話題になり、
あれが何だったか…と、ずっと気になって
『お話のリスト』を開いたら、あら、
ひとつめの「赤鬼エティン」。
そうだよ、そうだよ、これだったよ!と、
上司である友達にメールした。

実は、母親の立場で聴いたT先生のおはなしで、
もっと、心に残っているのが、「かなしいしらべ」である。
最近何度も語ったおはなしの出典本である
『島めぐり』に載っている「かなしいしらべ」は、
子どもには語らないだろう、おはなしなのだが、
これを、大人だけのおはなし会の時に
T先生が語られたのだ。

先日、「自己満足よりも自己犠牲」と
誰かがテレビで発言していたのを思い出した。

親として、子どもにしてあげられることは、
何かしらの自己犠牲の上になりたっているような
気がするのだが、それは、自己満足にも
繋がるような気がしたのだ。
実際、自分も、母親として、やらなければならないことと、
自分のやりたいこととの板挟みで、
辛い時期があったし、我が子の苦しさや悲しみは、
どうにもしてあげられないけれども、
それでも、何か…と、動いてしまうものだ。

子どもの苦しみを少しでも和らげるために
何かに縋りたくなるような気持は、親はだれしも
持っているのではないか。
そして、それによって、自分が傷ついたとしても、
我が子に幸せがもたらされるとしたら、
満足であると思う。
自己犠牲というのは、決して、自分を捨ててしまう
ことではないと思うのだけれど、どうだろう。

母親とは、大変難しい立場であるなぁと、
いくつかのおはなしを思い出しながら、
また、友達との会話の中から改めて感じた。
そして、もう、成人してしまった娘は、
私の手から飛び立ってしまったような気がしているが、
実際は、いつまでたっても、私は彼女の母親で、
彼女は私の娘である。
それは、私の母についてもよく思うことで、
こればっかりは、死ぬまで(いや、死んでも)
切れることのない繋がりなのだなぁ。
娘はそれを、快く思わないかもしれないが。

なんてことを成人の日にちなんで考えてみた。
「赤鬼エティン」
明日、図書館で借りてこよ〜っと。
おはなしのろうそく 8 赤鬼エティン