とみいよむよむにっき

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女性らしさってなに?

お針道具―記憶の断片 (新潮文庫)

私は、小説が好きだが、女流作家と言われる人の作品には
なぜか手が伸びない。
それは、もう、若いときからそうで、
作家の中でも、好きな作家を上げていくと、
恐らく、好きな日本の作家の中に、
女性がいないような気がする。
児童文学というジャンルに特化すると、
逆転する可能性もあるが、
さっと挙がるのは、男性作家だ。
全く読んだことがないわけではないのだけれど、
一作読んで、とても良かったから
次もその人の作品を読んでみたいと思ったことは、
宮部みゆき氏と有川浩氏ぐらいである。
林真理子氏や、吉本ばなな氏、川上弘美氏など、
若い頃は読んだこともあるが、続かなかった。
田辺聖子氏や瀬戸内寂聴氏もそうだ。

祖母が、『きのね』を読んでいたことを思い出して、
宮尾登美子氏のエッセイを借りてきて読んでいるのだが、
女性というのは、女性ならではの意識があるのだなと思う。
それは、もちろん男性にもあるのだろうが、
同じ女性として読んでいて、なんだかものすごく嫌だなぁと
感じる部分がある。
もちろん、その女性的な部分を認めないわけには
いかない部分もあるにはあるのだが、
そういうことが、女性では一般的と思われている
(思い込んでいる?決めつけている?)節があって、
いや〜な気分になる。

私は、自分がひねくれているとか、
あまのじゃくだとかいうことがわかっているので、
彼女たちの表現する女性が、自分から遠く遠く
ものすごーく遠い存在に思えて、
それを一般的だとみんなに意識を植え付けるような
文章を公にされることが、大変苦しい。
そうあるべきであるように書かれているものは
特にきつい。
自分の女性という性を、否定されているような気がして。

女性らしさって、何だろう?
女性らしさを決めているのは誰?
美しさや、柔らかさなどが、女性らしさなのか?
おしゃれしなきゃ女性じゃないのか?
だいたい、そういう見た目みたいなものを、
女性らしさと結びつけるのが、いやらしい。

いつまでも、「女性が輝く社会へ」なんて言葉を
使う方が、ナンセンスのように思う。
虐げられていた時期のうっぷんを晴らすような
思いを持っている人が、沢山いるのかなと疑う。
いつまでも被害者意識を持っているなんて、
思われたくないな。
いちいち女性が輝くとか、男性が輝くとか言わず、
個々が輝ける社会でいいじゃないかと思うのである。
「女性が輝く社会」なんて言ったら、
男性は輝いていてはいけない様に聞こえるじゃないか。

男性には適した役割があり、
女性には適した役割があり、
その中でも、やはり、性別なんかでなく、
個々で役割が違うのだと思う。
隣のあの人と、私は、同じ女性だけれども、
全く違う個人であるのだから。

カテゴリーわけというものは、
単純に二分三分出来るものではないことを理解して、
情報を仕入れないとね。

女性はこうだから、というような決めつけは、
して欲しくないと思う。
殊に、女性がそのように書くことには、
大変がっかりさせられるのである。