耳に栓をするのではなく
結構、人の何気ない言葉が突き刺さるもんだ。
仕事で、上の子と同じ歳の学生さんとやり取りすることがあった。
仕事終わりに、一緒に働いている知人が、
すぐにでも働けそうな子、人当たりもいいし
というような発言をされた。
うむ…確かにそういうお嬢さんだ。
でも、私の心は、「はよ、耳ふさがんと~」と焦った。
焦ってはみたものの、脳は上手いこと耳を塞いでくれなかった。
逃げるように帰ってきたのは、
小池さんの言う「ああ、辛いことだねぇ」と、
遠くから自分を見つめて、背中をなでなでするのは、今だ!
と思ったからだ。
学生さんは、娘と同じ歳だろうが、あと一年間は学生だし、
就職するのか、まだ進学するのかもわからないし、
第一、私には、そのお嬢さんがどこの誰と仕事を巧くこなしていくか、
なんてことを、想像する余裕もないし、
何より、そんなことを想像しようものなら、
ぜんぶ娘に直結して、もう、ボロボロ泣くしかないではないか。
なんてコトを電車の中で考えてしまったものだから、
どうして今日に限って、『善悪の彼岸』など持って来たのだろう。
小池さんの本を持ってきて、読み返せばよかったなぁと、
昨日までの通勤の友『”ありのまま”の自分に気付く』を思い出そうとした。
知人が、今の娘の状況を知っているからと言って、
そのことを、私に気遣う必要はないし、
そういうので、傷つくのがいやなら、「いやだ、ききたくない」と
言えばいいのだろうが、もう、そういうのも、面倒くさい。
小池さんのおっしゃる通り、それが、あるがままを受け入れるってことだなぁと、
電車の先頭車両で線路を見つめながら思ったのであった。
娘も晴れて卒業し、社会人になるはずだった、内定だってもらってた、
なんてことを考えたって仕方がない。
うまく社会に出て行くお嬢さんなんか、その辺にいっぱいいて、
そういう人や、そういう人を褒める人たちのことを気にしてたって、
娘の状況が変わるわけじゃないのだものなぁ。
「耳に栓をしたい」と思ったことは、全く自分の鍛錬が足りないってことだ。
言いたいことを、言わせておけばいいのだ。
それは、確かにそうだねぇと、よそのお嬢さんのことを、
誉めまでは出来なくても、うむうむ、と受け入れたらいい。
しかし、やはり、何気ないことで
人をバッサリ切り殺すこともできるんだなぁと
ひしと感じた春の夕方であった。
この前のボディブローより、一気に効くパンチであった。
きっと、朝、具合の悪かったのか、しゃがみ込んでいる
それこそ、娘ぐらいの若い女性に、
声をかけることが出来なかった私に、罰が下っているのだろう。
苦しく辛いことも、まぁ、そういう物だと受け取らねばならない世の中だ。
人の言葉に、敏感になりすぎても仕方がない。
私がその言葉に憤慨したからって、何が変わるわけじゃなし。
傷つきましたって申告することほど、馬鹿らしいことはない。
いい大人なんだからさ。
でも、自分は、これから、やっぱり、言葉を発しすぎずにいよう。
人に傷つけられるより、人を傷つけて、
その人の生きる力を奪ってしまうって
そういう恐ろしいことがあることを、わが身に沁み込ませよう。