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とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

50歳を超え

一昨日、数日間かけて通勤の友だった『ヴェニスに死す』読了。

 

もうすぐ、40代最後の誕生日を迎える自分としては、

『マチネの終わりに』から興味を持って読み始めた

ヴェニスに死す』は、年齢からいっても、いいタイミングだったと思うが、

その内容的には、共感できるかというと、そうではない…

と思いつつも、よくよく考えると、

今の年代というのは、アッシェンバッハのように、

もう若くないと思いながらも、どこか焦燥感や、閉塞感、

また、孤独を感じ、そこから飛び出したいと願う年齢かもしれない。

私は、アッシェンバッハのように、特別な才能を持った人間ではないが、

それでも、現在の自分を見つめた時に、過去の自分を振り返り、

まだ、何かできるはず…という気持ちと、

逆に、もうあの頃のようにはできない、という気持ちがないまぜになる。

どちらに動くかというのは、何か小さなきっかけによって、

右の道も選べるし、左に行くこともできる。

とどまるという選択もあるかもしれない。

アッシェンバッハの心を旅へと掻き立てた、不思議な男性の登場は、

本文の中では、そうページを割いていないが、

この男との遭遇がなければ、アッシェンバッハが、タッジオとの出会うことはなく、

また、もし出会っていたとしても、タッジオへの狂気じみた興味は

わかなかったのではないかと思う。

その、きっかけになった男との遭遇は、私たちにも、有り得ること。

 

なぜ、アッシェンバッハは、タッジオをあのように執拗に追い求めたのか…

また、追い求めはしたが、彼に声をかけることもせずに、

ヴェニスに留まり続けたのはなぜだったのだろう。

何か、若い時にやり残したことがあったのではないか、

現在、心を満たすものがなかったというよりは、

これまでも、自分を満たしてくれたものがなく、

タッジオの存在こそが、自分を満たしてくれる唯一のものと

直感したのではないかと思う。

 

人が、何かに興味を持ち続けるということは、

相当なエネルギーを必要とするものだ。

何かに興味を持ったとしても、それが、自分に

なにかを与えてくれなければ、

たとえば、心を満たしてくれるとか、愛に応えてくれるとか、

そうでなければ、その興味は薄れていくに違いない。

けれども、アッシェンバッハがタッジオを追い求めていながらも、

彼との接触を性急に願わなかったのは、

タッジオをただただ、見ているだけで、満たされるという

タッジオを求める自分に陶酔した愛だったように思う。

そういうことは、若い時にはなかなか理解できないだろう。

 

結局、病に侵されるかもしれないという可能性を知りながらも、

ヴェニスを発つこと、タッジオから離れる選択をせず、

死を迎えたアッシェンバッハは、

その最期に、幸せではなかったか。

 

半世紀生きてきたアッシェンバッハが、それまでの自分の人生の中で

見つけられなかったものは、タッジオという存在ではなく、

アッシェンバッハが、愛すべき存在だったのかもしれない。

タッジオでなければなかったという理由はどこにもない。

ただ、「その時」、絶妙なタイミングで、特別な場所で、

アッシェンバッハの前に強烈な存在として現れただけのことで、

だから彼の眼には、タッジオがより美しい少年に映ったのではないか。

 

心は、揺れ動き、とどまることを知らない。

毎日毎日が、同じような平凡な一日であっても、

仕事に忙しくあっという間に毎日が過ぎていったとしても、

人が、過去と現在が同じということはあり得ない。

 50年、自分の毎日が、安定した日々を送っているときに、

ふと、この変化のない毎日が続いて、

自分の人生はこのまま終わってしまうのか、

自分がこれまでに何を成し得たか、などと考えた時に、

アッシェンバッハのように、これまでとは別の

何かに恋い焦がれるという気持ちが、解からないわけではない。

 

何か…自分が夢中になれる、我を忘れて打ち込めるもの、

自分がやるべき使命。

若い時には、簡単に見つけようとしたもの、

簡単に見つかった気になったもの・・・。

結局見つからないまま半世紀が経ったことに気づいた自分が、

まぁ、そんなもんか、とあきらめるか、

いや、まだ、どこかにそういうものがあるはずだと行動に出るかは、

その人の精神に左右されるのだろう。

アッシェンバッハは、最後まで芸術家だった、ということだ。

 

今回、本を読んでいて、芸術が実に幅広く深いものだと感じた。

ことに、文芸というものは、美術や音楽よりも、

芸術から離れたもののように私には感じられていたので、

その感覚的なもの、精神的なものを言葉で表すという、

実に人間的な表現方法が、やっと、芸術と結びついたように感じた。

そして、そこに、平野啓一郎氏が『マチネの終わりに』の中で

表現しようとされたテーマの深さや、幅広さを改めて感じ、

彼も、単に「小説家」というよりは、「芸術家」の一人なのだと思う。

そういう気持ちで、いろんな作品を読んでいくとしたら、

やはり、時間をかけてじっくり読むことが、

書を読むことの本質、また、その作品の芸術性をとらえることに

つながるだろうと考えた次第。

 

私にとっての、タッジオが、近いうちに現れるやもしれない。

そう思うと、歳を取るのが楽しみなような、恐ろしいような。

もう、現れているような気もしているが。

 

トーマス・マンは『魔の山』にも挑戦しなければならないと

ずっと考えているが、あの長編小説は難関であろう。

ヴェニスに死す』という短い小説でさえも、

私をくたくたに疲れさせてくれたから。