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とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

ズレのこと

平野啓一郎氏がつぶやいたご自身のズレのことが

ずっと頭の中を駆け巡っている。

確か、ズレというのは、オードリー若林氏も、

そういうことをどろだんご日記に書いていたような気がする。

 

昔、「わたしだけのSOMEONE」を追い求めた時期が

あったことを思い出した。

それは、『二十歳の原点』に触発されたからかもしれないし、

星の王子さま』だったかもしれない。

「ひとり」というのは、永遠のテーマだなと感じていた

二十代前半の頃のこと。

誰とも分かり合えない、そんなことを考えていたころ。

諦めようとして、諦めきれなくて、

きっと、どこかに、自分とぴったり魂が共鳴するような

そんなSOMEONEとの出会いがあるような気がしていた。

 

でも、この人?!という人に出会っても、

何か違う、違和感があった。

その違和感を感じると、もう、その人とはぴったりこん!

とは、ならない人なのだと、諦める。

それのことを、平野氏はズレと言っているのだろうか?

 

あの人もこの人も、思っていたような人ではなく、

やっぱり、人間って、一人なんだなぁって思っていた。

それが、寂しいと思うときもあり、一人でいるのが一番!と

思うときもあり、結局、自分が何を求めているのかわからなかった。

 

今考えると、私は、私が望む自分像を探していたのではなかろうか。

こうでありたい、でも、自分はそうではない。

いつかきっと、そうなりたい、と思う人間像を、

SOMEONEとして、求めていたのではないか。

 

今、私が、そのSOMEONEになれているかというと、

ぷっと吹き出したくなるくらい、

人間像が聞いてあきれるほど、とんでもない人間だが、

それでも、自分なりにわかったことがある。

大勢の中にいる自分が、その多数派であろうと、少数派であろうと、

自分が求めている姿なら、それでいいんだって。

きっと、その姿が、私だけのSOMEONEなのだと信じていたい。

自分の中にいる、自分の理想像を求めている限りは、

一人であろうと、群れていようと、

私は自分からブレていかない。

たとえ、それが、多数派から見ると、ズレていても。

 

ずっと、私だけのSOMEONE(誰か)と思っていたが、

結局は「ONE」なのである。

私は、私だよ。私でしかない。

自分探しの旅は、一生続くのだろう。

 

平野啓一郎氏のズレは、

そういうズレの集団である文壇の中でもズレているらしい。

それって、素敵なことじゃないですか?!

そういうズレを、オードリー若林氏とか、又吉氏とかにも

感じていたのだけれど、

最近は、どうもTVで、又吉氏をいい人扱いしすぎで、

ちょっと惜しい気がする。

いや、いい人で構わないんだけれど。

後輩たちが「又吉さんは、云々」って褒めていると、大体決まって、

言葉にすんなよ!といらだってしまうのである。

 

誰かと同じような生き方をするのは、

ましてや、誰かの生き方を真似するのは、大変かっこ悪いように思う。

こういうところで、中学時代に育んだ、ROCKな心が

浮き出てきてしまう。

「私は私だ、私でしかない」

みんな、それで、いいんじゃないだろうか。

誰かが生き方を修正してくれるわけでもなし、

自分がどう生きるか、それにつきる。

 

しかし・・・そうはいっても、自分の魂と共鳴する人を

やっぱり求めてしまうものであるのかな。

人間って、結局は、寂しがり屋さんなのかもしれない。

 

そんなことを昨日から考えていたが、平野氏の

『ディアローグ』のなかの、古井由吉氏、島田雅彦氏の3人で

三島の文学について、彼の人生・死について、語っているのを

読んでいると、実に真面目に話していらっしゃるが、

三島にそう熱を上げられない私などが読むと、

何を故人のことを、大の大人がそんなにむきになって話してんの

と、もう電車の中で笑いをこらえきれないのである。

なるほど、文壇というところは、変わった人の集まりなのだなと、

しみじみ思うのである。

そして、また、私なんかは、

その変わった人の中に入りたい!入る気満々であっても、

そういう中に入るとやはり、相当なズレを感じてしまうのだろう。

なんという時間の無駄であろうか…なんてことを考えちゃいけないのだな。

 

読んでいて、変わった人の集まりであるし、

その中でもズレを感じたりすることもあるのだろうが、

やっぱり、一つの大きな円の中に入っている感が強いと感じる。

同じ作家と言っても、年代もバラバラな3人さんが、

言いたいことを言いあって、本のページに収まるなんて、

そうとうの引力で惹かれあっているとしか思えないのである。

同じような考え方を持っていたら、きっとこうはならないだろう。

そして、そういう世界とは相容れない私だが、

それでも、その人たちに魅力と憧れを感じつつ、

彼らの言葉を楽しんでいる。

こういう読書も、大変面白いものだ。

自分の感じているズレなんか、ズレでも何でもないんだなぁと

思わせられる、文学人の対談集である。

平野氏と話ができるほど、ボキャブラリーも会話力も持ち合わせていないのだけれど、

話をしてみたい人だなぁと、強く感じる。

 

平野啓一郎氏『マチネの終わりに』5刷だそうである。

発売から2か月で5刷。

合計で何万部売れているのであろうか。

実は、私もリクエストして図書館で買ってもらったので、

自分で買っていないのである。

あんなに絶賛しておいて…

でも、この熱がちょっとおさまった頃、きっと購入するのである。

願わくば、この小説が、売れても映像化されませんように。

ファンの心は複雑なのである。