とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

苦海浄土の二回目

もう、明日には3回目の放送が・・・。

金曜日の夜、録画していた2回目をようやく観た。

 

近代を「人格」として捉える。

ここが、第2回のポイントであったろうか。

 

人間が、楽な暮らし、豊か(と見える)暮らしを求めた結果、

見落とされた安全。

そして、原因がわかってからも、しばらく放置されたという現実。

その楽な暮らしを手放しで喜んできた私たちにも、

実は責任があるのだということに、ううむ…とうならされた。

 

高度成長期の、さまざまな公害だけにとどまらず、

現在を考えてみる。

自然を壊しながら、人間だけが、突き進む文明の進化。

番組を観ながら、あぁ、このことは、あれにもつながる、

これにもつながる。そして、自分にも責任がある…って。

 

とくに、安全でないことが分かってからも、

結局有機水銀を流し続けた、だれも止めなかったというところは、

今の原発の問題と、全く一緒ではないかと。

あれが、危険なものだということは、東日本大震災の時に、

思い知らされたはずなのに、どうして使い続けるのか。

そこに、『苦海浄土』で近代の闇への警鐘は、活かされていない。

現在稼働している川内原発は、水俣市から50キロと離れていない。

 

立ち止まる、スピードを落とす、時には逆行(に見える)する

その勇気を持たねばならないという伊集院光氏の言葉を、

自分の中にも、しっかりと刻み付けておこう。

〝個〟であることの難しさとともに。

 

あと、患者を番号で呼ぶということに関しての

若松氏の説明も、聞き逃してはいけない部分。

人が、人を番号で呼ぶとき、「量的」な扱いしかされず、

「質的」な扱いを受けることがない。

つまり、そこで「私」という人格は無いことにされる

ということなのであろう。

いまや、私にも、家族にも、この国の人たちすべてに

番号が振られている。

このことについても、疑問を投げかけるべきなのでは、と思う。

今更…と、放置されることは、危ういことだ。