とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

乗り過ごした

今朝、電車の中で『銀の匙』を夢中で読んでいたので、

降りるつもりの駅を通り過ぎていた。

出勤前に、買い物をしたかったので、

そこまで歩いて行くつもりが、

結局終点まで行ってしまった。

乗り越し運賃というのは、容赦ないなぁと思う。

本当の運賃は400円。

私が持っているのは一駅前までの340円の切符。

だから、60円払うのかと思ったら、

一駅載った分の150円を取られるのである。

ほんとに?一度も降りていないのに?

なんか、腑に落ちない。

 

まぁ、結局、150円を払い、

本当は運動のために歩くはずだったので、

早足でお店に向かい、買い物を済ませ、また早足で職場へ。

余裕のお時間であった。

 

この前も、『銀の匙』に夢中になって、うるうる

電車の中で洟を啜るおばちゃんになってしまった。

何がここまで、共感させるのか解らない。

ノスタルジーとはまた違うなにか。

時代を超えた、人間の本質に訴える何かがあるのではないかと

感情を揺さぶられた後、洟を啜りながら考える。

巧く描かれた主人公の心情を自分の心に移してみるが、

自分の子どもの頃、こんな子がいたとか、

こんな気持ちになったことがあるとか、

そういうこととはまた違う、何かデジャヴを感じるのである。

 

細かく章立てされたこれらの文章の、どこが、

自分に鋭く突き刺さっているのかわからない。

むしろ、鋭く突き刺さるというよりは、

洗った後の乾いた筆で撫でられるような、

優しい肌触りの中に、所々墨のよく取れていない毛で

ちょっと引っかかれたような、

そんな感覚なのである。

 

この世界に入ったら、思わずパッとは出てこれず、

今朝のように、乗り過ごすってことになるのである。

帰りも一駅前で気付いたからよかったようなものの、

朝と同じ間違いを繰り返すところであった。

 

ここがいいという文章を挙げたら、キリがない。

再読するときは、プルシアンブルーの色鉛筆で線を引くつもりだ。

あちこち線だらけになって、青い本になるだろう。

この本を持って、実家の祖父母の仏壇に参りたい。

『鳥の物語』も好きだったけれど、ほんとにいい。

恐らく、文章が私の中に入ってきやすいのだ。

だから、私が好む文章というのは、どういう物かを知るためにも、

中勘助氏の作品を、読み漁り、

その特徴を知るのがいいように思う。

 

何かの役に直接役立つような読書とは言えないかもしれないが、

文章から頭に物を思い描くとか、

その匂いや手触りを想像するとか、

そういう物は、自由なんだってことを

ひしひしと感じる本である。

そして、心の柔らかさを感じる本である。

明治20年代など、私は知る由もないが、

それでも知っているような気にさせるほどに、

はっきりと思い描けるこの本はスゴイ!!

電車を降りても、ページを閉じたくないと思ってしまうくらいこの本が好き。

だけど、ホームに落っこちない様に、

そのページを読み終わったら、ちゃんと閉じてバッグに収めている。