とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

『悪の力』読了

答えがスパッとでない事は、多々あるものだが、

善と悪の境界というのも、曖昧である。

『悪の力』(集英社)を読了。

その中で、「悪」について考える時の題材として、

幾つか書物の名前が出て来たが、

やっぱり、ドフトエススキーは、

一度じっくりよまなきゃなぁと思った次第。

それから、ハンナ・アーレント

『イエルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告』は

ぜひとも読みたいと思った。

この作品を取り上げた文章の中で、姜尚中氏はこう述べている。

「―――つまり陳腐な悪とは、思慮の欠如であり、そして想像力の欠如

であるということです。その、思想のなさという病が集団殺戮を生みだす

遠因ということになります」

また、夏目漱石が、100年以上も前に『それから』で

今の日本の姿を見抜いていたという

第3章の三、悪を育てるもの の項も、なるほどと納得。

資本主義の起源を宗教に裏付けられた中産階級

資本主義の精神に求めたマックス・ウェーバー

宗教に裏付けられたとは、

禁欲・節約・節制・質素・勤勉・実直・労働・倫理

のようなことを指している。

そこには、しっかりとしたモラルが存在したが、

無限に蓄積することをめざした経済倫理の果て、

やがて、禁欲的な倫理は消えて、

人間は資本蓄積の従僕へと成り下がった。

欲得がはびこる世界が常態化すれば、

エゴイストたちがのさばり始めるのは、当然の成り行き

と、姜氏はいう。

漱石は、『それから』の中で、痛烈に批判している。

姜氏の文章によると

「―――資本主義によって、神もなければ人も信用できない

日本の国柄が生まれた」

という批判だ。

 

私は、心を拠り所とする宗教を持たないが、

禁欲・節約・節制・質素・勤勉・実直・労働・倫理

を守るような生き方は、宗教とは無関係だと思ってきた。

何かの宗教を信仰している人たちの集まりでさえ、

そういう生き方が崩壊してしまったというのなら、

人間がまっとうに生きる場合、宗教だけでは

どうにもならないのだなと、やるせない気持ちになる。

しかし、逆に、個人の中で、人間的な生き方を考えるということに

重きを置けば、利益追求に心を奪われるような生き方が

もてはやされることはないと思う。

何に価値を持たせるかは、個々で差があるというが、

この差を広げたことが、今の資本主義経済であり、

それによって、人間が知性や理性を失ったとも言えるだろう。

もはや、現代の人間的な生き方のなかに、

禁欲・節約・節制・質素・勤勉・実直・労働・倫理

を求めることが、時代遅れだと言われるのかもしれない。

こういう生き方が報われないその社会に、

悪が蔓延しても、何ら不思議ではない。

 

私が子どもの頃、「真面目」であることを

揶揄されるような時代だったと思うが、

もう、そのころ既に、

日本人は資本蓄積の従僕へと成り下がっていたのだろう。

私は、その資本蓄積体質というのは、戦争の反動だと思っていたが、

夏目漱石が100年も前に、日本のお国柄を批判していたということは、

戦争のせいばかりではなかったようだ。

 

姜尚中氏の物静かなイメージを覆すようなことも書いてあるので、

読んでいて、「やっぱりただ事ではないのだな、今の日本は」

のほほんと過ごしている場合じゃないぞ、と思った。

参考文献や、聖書については、時間の許す限り紐解いてみたい。

 

禁欲・節約・節制・質素・勤勉・実直・労働・倫理

を守るような真面目な生き方は、

難しいけれども、私の憧れる所である。

そこに価値を見いだせない人との溝は、埋まることがないように思う。

富や地位や名声を求める生き方は、私には不要である。

後世に残すべきは、個々の人間の富や名声ではなく、

何を成したか、また、その魂・精神ではないかと思う。

大きなことを成したとかではない、

日々を淡々と丁寧に、心豊かに生きることを、

後世に残したいと思っているが、

それを価値ある生き方だと思える人が、

日本では珍しい存在になって来たのではないだろうか。

 

まだ、「悪」について、やいのやいの言えているだけましか。

人間という生き物は、いつの間にか便利さを追求して

自分が動くことをしなくなってきた。

恋愛や結婚も面倒臭いと言う若い世代が現れた。

人類こそが、絶滅危惧種だなぁと思う。