とみいよむよむにっき

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信じるということ

4月に毎日新聞で岸見一郎氏と平野啓一郎氏が対談された

記事をネットで読んだ。

テクノロジーが人間の自由意志の領域をさせているようにみえるいう、

平野氏の言葉と、

自由意志の最後の砦が恋愛でしょうという、

岸見氏の言葉に、いろいろ考えさせられる。

 

自分の意思に反して、思考の隅っこに、入り込んでくる言葉や映像、音などが、

人間の思考を歪ませることになるというようなことは、

常々思っていたこと。

自分が考えたことの中に、意識して取り込んだ部分と、

そうでなく、無意識のうちに、自分に入り込んできた部分があるってこと。

しらずしらずのうちに、

取り入れるつもりのない事柄も入り込むほど、

世の中は、情報にあふれかえっている。

 

自分が、何を信じ受け入れるか、何を拒否するかは、

意識していれば、何とか自分のふるいにかけることができるだろうが、

目をすり抜けて入ってくる事柄は多い。

ふるいの目を小さくすることも必要だけれども、

受け入れるべきことかどうかの判断は、その先でも出来るっちゃぁ出来ると

私は思っている。

ふるいの目をあまり小さくすると、

受け入れること自体を拒否したことになりそうで、

それは、気を付けたいなぁと思っている。

 

話は変わるが、信仰の話。

何を信じるかというのは、それこそ、自由意志だと思っている。

どんな神仏、神聖な物を信じているかと訊かれても、

恐らく、私はこれを信じ、拠り所にしているというものは、

自分ではっきりとは、答えられない。

自然崇拝と言えばそんな気もするし、けれども、

いわゆる神道とは、少し違うようにも思う。

けれども、神社に行けば、おみくじをひいたりする。

今、お財布の中に、春に行った、神社のおみくじが

そのまま入っているが、それは、大吉だったわけではなく、

おみくじに書いてあった、初めのことばが、いいなと思ったので、

おみくじを結ぶよりは、自分で持っていたくて

お財布の中に入っているのである。

 

春風に花の開くがごとし

機を待て、ということなのかな。

機が熟さないと、花開くことはないということだろうと捉えた。

また、

「人の幸福を喜べる心が自分の幸福を生むのである」

という言葉が冒頭に書かれていて、これも考えさせられる言葉だ。

 

最近よく考えていること、

自分が当たり前だと思って考えている事を、

他人が同じように考えているとは限らない。

価値観や生き方の多様化のため、

他人が何を幸せと思っているかなど、わかるわけもなく、

それを、自分が判断するなど、到底無理があると思う。

 

自分が信じること、幸せに思うことを、他人に押し付けるのは

ナンセンスだなぁと思うし、人の信仰にケチをつけても仕方がないのだけれども、

占いという物は、信じるに値するものなのだろうか?と、

こればっかりは、首をかしげてしまう。

この、占いを信じて、たとえば、軽いものだと、

今日のラッキーナンバー、ラッキーカラー、ラッキーアイテム!

なんてものを、毎日毎日示されたとおりに守ったとしよう。

守ったけれども、全然ラッキーでもなんでもないよって、

クレームつけたりする人がいるんだろうか?

星座とか、血液型とか、生年月日で、グループ分けされて

一人一人ではなく、十把一絡げにしてその人の性格は、将来は…

なんて言われたところで、なぜにそれを信じられるのかよくわからん。

 

ゲーム感覚的に、今日はラッキーカラーが黄色だったから、

赤ではなくて黄色のパプリカを買ってみよ~♪

というのなら、まぁわからないでもない。

けれども、赤ではなくて、黄色のパプリカじゃないと、

幸せにはなれないのよ!ってくらい、切羽詰まった人は、

その黄色を選ぶ行為でも、自分を追い詰めちゃうんじゃないかって

そう思うんだけれども…。

 

とはいえ・・・私は昔からあまり占いは信じない方だったし、

なにしろ、占いなんて言うのを見る習慣がなかったので、

どういうことが書いてあるのかもよく解らない。

小6の頃読んでいた雑誌に、星占いが載っていて、

同じ星座の友達とは、同じ運命をたどるのか?

と疑ったのが、たぶん占いを信じないって決めた始まりだ。

同じ生年月日の人って、地球上に何人もいるのに、

それが同じようにあなたは、○○な性格です。って言われてもねぇ…。

それに、その占いが当っているからって、何になるというのだろう。

 

人のアドバイスは、まぁ、聞いておこう、って感じだが、

きいて、その通りにするかどうかは、自分が選ぶ。

それでこけたら、自分の責任で済むからなぁ。

占いを必死に信じている人たちは、何か悪いことが起きたら、

その占いのせいにしちゃうのかしら。

そういうのは、私には理解できない。

自分の人生を誰かのせいには出来ないししたくない。

誰かに、答えを委ねたところで、

やっぱり、その道を進んできたのは、自分だし。

 

何かを信じるというのは、難しいことだ。

私なんか、大抵のことにおいて疑うことからスタートするから、

何かもしくは誰かを信じることは、大変難しい。

全幅の信頼を寄せるってことも、あるだろうとは思うけれど、

それは裏切られた場合が恐ろしいので、予防線を張る。

信頼できる自分を作り上げるのが、一番だなぁと思っている。

自分にだったら、裏切られたとしても、受け止められる気がするし、

そういう自分でありたいと思う。

まだまだ、自分に全幅の信頼を寄せてなんて無理だけれども。

 

自分が目指す生き方は、日々変わるものかもしれない。

けれども、もう、いい加減50近いので、大まかには決まっている(ハズ)。

この歳で、自分の核が出来ていないとは、言いたくない。

20歳の時にたてた、自分の核を!という目標が、

まだ出来ていないなんて!情けないじゃないの…。

ぶっとい柱とはいえなくても、

せめて、細くてもいいから、自分に出来た芯を支えに生きて行くんだ!

これは、信仰ではなくて、信念だな。

 

姜尚中と読む夏目漱石の第一章を読んで、

夏目漱石先生とは、気持ちが通じるのではないか…って

亡くなって100年もする人に、期待しても仕方がないか。

このことは、読書の記録として、別記事で書こうと思う。

 

あぁ、日曜日が終わる。

本の続きを読もう。