とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

『草枕』冒頭の気分

今日の仕事帰りに、頭の中にずっと繰り返された

草枕』の冒頭の部分。

ちょっと前に、娘に朗読してもらっていたからか、

余計にぐるぐる回ってしまった。

 

智に働けば角が立つ。

情に掉させば流される。

意地を通せば窮屈だ。

とかくに人の世は住みにくい。

 

自分の思っていることを言葉にして出してしまうと、

全てが嘘っぽくなるのは、なぜなんだろう?

嘘っぽく、っていうか、口から出てしまった瞬間、

全部全部嘘になって散って飛んでくような気がする。

どこにも届いていないような気がして、

その実、本当は、誰にも届かないって思いながら

口に出しているような気がする。

私とは離れた所で、別の私が、

私の言葉を聴いて、嘲笑っているのに気が付いて、

居た堪れない気持ちになって、情けなくなる。

 

承認要求が半端なかった10代20代とは違って、

今は、霞の中に潜んだような静かな生活がしたいのに、

言葉を口にするたびに、それは本心か?と

自問自答する羽目になる。

べらべらしゃべってるこの口を、

目の粗い千鳥掛けで縫いつけてやろうか!と思う。

 

千鳥掛けなんて言ってる時点で、本気で口を閉じる気はないんだな…。

浅はかだ。

 

さっき、村上春樹氏の「壁と卵」のスピーチを久しぶりに読んだ。

私も、壁ではなく、卵でありたいと願っている。

このスピーチを読むと、本当に人間は孤独であるし、

孤独を感じるべきだと思う。

一人一人が持つ魂を、大事にするためには、

各々が自分の魂を、大切にしないといけないし、

その、自分の魂を磨くためには、

孤独な時間というのはとても重要なのだと思っている。

 

それなのに、どうして、誰かと分かり合おうとしてしまうのか。

そんなの絶対に無理って、何度も思い知ったし、

もう、いい加減、解り合うことなんて幻想にすぎないと解っている。

それは、とても不毛なことだと、20代の頃から思っているのに。

いいかげん、本当に孤独であることは、出来ないんだと

自覚しないといけない事かもしれないが、

それでも、自分は孤独を好み、大事にする。

独りであれこれ、自分自身との対話をするときが、

一番、私らしい時間を過ごしていると思うのだ。

そして、その時間が無かったら、私は、

私以外の人を愛することは出来ないと思っている。

今の私の優しさなど、嘘っぱちである。

自分を守っているだけなのである。

それは、壁になっていることにならないか?

こんなんじゃないと、頭を掻きむしりながら唸り声を上げたい気分だ。

 

夏目漱石はイギリス留学中に発狂したそうだ。

夏目漱石の小説を読めば、自分の精神の限界、

そして、その先の未知の部分に出会えるかもしれない。

 

情に掉させば流される…

全く…生きにくい世の中だ。

一頃強く感じた自分の自由、

その自由な精神を、今の自分は見失っている。

でも、きっと、書を読むことで、取り戻せると信じている。

結局は、そういう孤独な作業が好きなのである。

そういう中からしか、自分らしさを見いだせないから。