とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

20160616

今日は、返却する本があって、ちょっと遠くの図書館へ。

でも、今日までその図書館は特別整理期間で

閉館であったので、ポストに返却してきただけ。

もちろん、それから自分ちの最寄りの図書館まで行った。

火曜日、木曜日は娘と一緒にいるので、

週に一度は図書館に行ってるような気がする。

なかなか読み進められないけれど。

 

前回借りた本も、一冊は断念して返却。

『ふなふな船橋』は、3分の1くらい読んだが、

来週の返却日をまたずに、返却。

でも、この本の冒頭に、♪ふなふなふなっしーの歌詞が載っていて、

それで、久しぶりに動画を見る(聴く)気になったというのは、

収穫であったかもしれない。

作品自体は、ふなっしーというゆるキャラを出しながら、

船橋市で生きる若い女性を描いたものだったのだけれど、

私にはなかなか響かずに、

読み進めてもあれこれ考えることもなく、

これは、もっと若い頃なら読めたかもと思いつつ、

本を閉じた。で、返却。

 

『ディアローグ』も、自分の読みたいところだけ読んで、

いったん返却。

『ディアローグ』そういうことを4回くらい繰り返している。

最近になってようやく、平野氏がほかの小説家や、

ほかの分野の方々と対談されている意味みたいなことを

考えながら読むことができるようになってきた。

やっぱり、歳を重ねるのは、なかなかいいことだ。

 

今日借りてきたのは、この本。

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最近、このブログの読者になって読んでくださって

ちょくちょくスターまでつけてくださっている方のブログにて

出会ったおはなし。

図書館で予約して、順番が来たので、借りてくることができた。

 

私がちょっと躊躇したのは、女性作家さんの小説であること。

昔から、どうも、なかなか女性の一般向け小説が苦手である。

児童文学だと、逆に、女性作家の作品に手が伸びるほうだけど。

だから、吉本ばなな氏の『ふなふな船橋』が読めなかったのも、

自分では、なんとなく、そうかもしれないと思っていたので、

すっぱり途中でやめてしまったのだ。

なぜなんだろうなぁ。

 

児童文学だと高楼方子氏の本は、出たら読みたいと思う。

特に、高学年向けの本は。

それから、出版されたものを読みたい!と思わせる人と言えば、

清水眞砂子氏は、はずせない。エッセイとか講演録とかすごく好き。

あと、児童文学と言っていいのかわからないけど

作家というか、なんというか…

石井桃子氏はとにかくすごい人!と思っているので、

まだまだ読んでいないものが多く、読まねば!という気にさせられる。

 

もちろん、女性作家の小説で好きなものもあるにはある。

例えば・・・増田みず子氏の『シングル・セル』

これは、若いときに出あった本。今でも持っている。

二十歳の原点』と並ぶ、私の「独り」を考えるバイブルみたいなもの。

一昔前の宮部みゆき氏の小説。

『龍は眠る』『火車』『理由』とか『蒲生邸事件』『クロスファイア』など。

模倣犯』は買ってまで読んだが、そのあたりでストップした。

でも、宮部みゆき氏の文章は、嫌いじゃない。

最近だと・・・(最近ってほど最近じゃないが)

梨木果歩氏の『西の魔女が死んだ

有川浩氏の『図書館戦争』シリーズや『レインツリーの国』

(これは、有川さんを男性だと思い込んでいたことによるかも)

窪美澄氏の『ふがいない僕は空を見た

なんかは読んだけど、男性作家のように、

この人の作品はすごくよかった!ほかの作品も読みたい!

という気持ちになぜか、なれない。

 

でも、『しあわせのパン』は、読者さんが、とても素敵に

紹介されていたので、ぜひ読んでみよう!と思ったので。

 

今日は、この一冊のみ。

まだ、『蜩の声』をゆっくりゆっくり読んでいるのでね。

読みたい本はたくさんあるが、時間がないから、

「時間の無駄遣い」になりそうな読書は避けたい。

この、「時間の無駄遣い」には、語弊があるかもしれないけど。

娯楽としての読書と、そうでない読書があると私は思っている。

時間が許されるなら、娯楽としての読書も必要だと思うのだが、

なんせ、時間に制約があるし、歳とともに、がーっと読むことが

出来なくなってきた。

これは、ストーリーテリングを始めてから極端に変わったこと。

文章のリズムって、すごく大切だと思うので、

目で追うだけでなく、やっぱり心の中で声に出して読んでいる

もしくは、誰かに読んでもらっている感覚。

 

ちょうど、10年くらい前に清水眞砂子氏の講演会にて、

強烈に残っている言葉。

ある本の読後の感想を「何たる時間の無駄遣い!」と言い放たれたのだ。

当時、大人にも子どもにも読まれ、熱狂的なファンがたくさんいた

あの本のことを。。。うちの娘も大好きだったが。

まぁ、これには目からうろこであった。

人間、生きてる時間は限られていて、

どんなに読んだところでせいぜい・・・ということである。

折角時間を使って読むのなら、

自分の血となり肉となるような読書をおすすめする

と言われたような気がした。ガツン!とね。

気がしただけだけど。

 

今、数多くの出版物が出版され、到底読み切れないのだが、

本から引き寄せられる引力のようなものを信じたいし、

平野氏の(随分昔、芥川賞受賞後に地元新聞への寄稿文で)

「飽き足らなければ鴎外を」という言葉も、心に残っている。

読書のつながりは、自分を知り、考えるうえでとても重要だと思う。

何に興味を持ち、何を好み、何を拒否しているか、

そういうことも、読書体験に映し出されるから。

 

という私だが、読書記録というものは、

逐一とってはおらず、また、気に入った文章などを

抜き書きするようなこともなかった。

そこが、ボキャブラリーの貧困さにつながっているような気がするが、

おそらく、言葉を感覚・イメージでとらえる癖があるのだろう。

漢字にも、そういう、なんとなくのイメージで意味を持たせている

ところがあるように思う。

最近、ちょっとは辞書を引きながらの読書もするし、

抜き書き的に、ブログに書き残しておくか、

と、すごくいい体験だったというような読書は記録をつけているが。

 

さて、『しあわせのパン』は、私に何を考えさせてくれるだろうか。

楽しみ♪