とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

諦念か・・・

「諦念」という言葉を、金曜日の「ご本、出しときますね」という番組で

平野氏が使ってあり、森鴎外の諦念(レジグナチオン)について触れ、

高瀬舟』をおすすめの一冊にされた。

その後、『マチネの終わりに』の中で、何度もその言葉に出あった。

 

諦めの気持ちというのは、字から簡単に想像はつくが、

「あきらめ」であり「受け入れる」ってことでもあるなぁと思う。

あきらめっていうと、「あーもうだめだぁ」と、手放してしまうような

イメージがあるが、

物事の本質を見て取り、「そういうもんだからしかたないな」と

受け入れるということでもあるだろう。

悟りの境地と言えば、ちょっと大げさかもしれないが、

人間、歳を重ねるごとに、そういう捉え方が出来るのではなかろうか。

年の功とでも言おうか…。

 

若い時には、絶望を受け入れるということが、難しい。

未来が全て、否定されたような気になるからか。

恐らく、いろんな経験がないからであろう。

今の、我が子の様子を見ても、経験の少なさ、浅さから、

乗り越えられなかった、受け入れられなかったものの重さに耐えきれずに、

また、諦めることもできずに、この状態に至ったのだろうと想像する。

 

小さな問題を少しずつでも経験しておけば良かったろうに、

幼い頃に患った持病のために、その問題を、少しばかり、

親が(いや、私が)取り除いてきたばっかりに、

一人立ちを前に、急激にガツンときたのだろう。

諦めることを、良しとしない性格だったこともあるかもしれない。

そういう性格も、生まれ持ったものでもあり、

親がそのように育てたということもある。

 

諦めるっていうのは、逃げとは違うように思う。

「諦めるな!」と、背中を押すばかりでは、人を苦しめる。

「そういうこともあるさ」と、受け入れることも、

時には必要なのだろう。

苦しみも、受け入れることで、楽になるというようなことは、

小池龍之介氏の本にも書いてあった。

「苦しいんだね」と、自分を見つめるという受け止め方。

 

どうにか出来るかもしれないと、足掻くことも、必要な事があろう。

けれども、限界を前に、自分にはどうにもできないことと、

他人に力を借りることの、何が悪いのか。

若い時には、そうやって、限界近くまで頑張って、

もがき足掻いて、結局、失敗するという事もあるだろうが、

それが、終わりではないので、

絶望することも悲観することも、大概にしておけ、と、

言ってあげる人が必要だなぁと思う。

若い時は、限界が解らないからなぁ。

 

『マチネの終わりに』再読し始めた。

昨日の今日、ならぬ、今日の今日。

この小説の深さに、惚れてしまいそう。

「恋愛小説」のジャンルにしてほしくないが、

「大人の恋愛小説」ってことにしておくと、

もしかしたら、若い人が背伸びして、手を伸ばすかもしれない

という期待もあるな。

私のような、主人公と同世代の人間が読むのもいいが、

若い人が読むのも、いいんじゃないの!と思う。

きっと、若い時に読んだら、今とは違うような捉え方をしたろうな…

ということを思ったので。

今、出た本だから、仕方ないけど、

若い時に読んでいたら、違う引力で引っぱられたろうと思うなぁ。

「諦念」って言葉を深く考えるだけでも、人生をかなり楽しめそうだ。