とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

11日

飛行機がビルに突っ込むという衝撃的な映像を見た日から

15年が経とうとしている。

あの時の、アメリカの報復ムードが不気味だったと思い出す。

昨夜は、ペシャワールの会の中村哲医師が、

アフガニスタンでの用水路建設の記録という

NHKスペシャルを見て、「希望」ってあることを確信した。

憎しみからは何も生まれない。

中村医師の行動力は、アフガニスタンの農民の行動力へと

つながっていき、人々は、用水路から得た水によって、

暮らしを取り戻している。

タイトルにもある『武器ではなく、命の水を』が、

人間が生きていくうえで、必要なものを表している。

中村医師を突き動かすものは何なのだろうと考えると、

そこには、命を守る医師であることと、人間への愛しか

なかろうと思われた。

たったそれだけのことだが、中村医師にはそれだけで十分

用水路建設を実行に移す理由になり得たのだなと。

そして、それは、きっと、当たり前のことではない。

当たり前の事だったら、世界中から飢餓なんてのはなくなるだろう。

中村哲医師は、福岡の人で、

昨日は、福岡市内で講演会が実施された模様。

夕方のニュースでそれを知り、

そういう人の話を実際に聴くという自分のアンテナが

うまく機能していないことに気づく。

自分の心の中に、余白が少ないのである。

これはとっても、危ういことだ。

 

ところで・・・11の並びを見るとやはり、

5年と半年の前の3・11を忘れてはならない。

あの震災で、多くの人たちが、

被災した人だけでなく、何もできずにいる遠くの私のようなものでも、

生きていくって、なんだろう?と、考えさせられる

きっかけになったはずだった。

でも、実際はどうだろうか?

あれから、私は何か、変わることが出来たろうか?

 

昨夜、内職をしながら

Eテレで未来塾で、東北の高校生が、

熊本の被災地でいろいろ体験をしているのを見た。

小学二年生の時、実際に被災した子どもたちが、

防災のプロを目指すということに、たくましさを感じた。

テレビでその映像が流されているから

そういう風に映るというわけではなく、

頑張って生きている人がいっぱいいることを知る。

 

久しぶりにさださんの曲を聴きたくなった。

♪主人公 や ♪風に立つライオン、

♪HappyBirthday あたりを。

Youtubeで探していたら、たまたまだが、

2011年9月23日に石巻市の復興イベントでさださんが

ミニライブをやっている動画があって、

1時間弱の映像を見ることが出来た。

その中で久しぶりに聞いた歌 ♪いのちの理由 が良かった。

たしか、テレビで二度ほど聴いたことがあり、

中学生だった息子が「いい歌や~」と漏らしたのだが、

タイトルがわからないままだった。

 

生きているのに疲れた人の背中をやんわりと支えてくれる

そんな歌だと思う。

浄土宗の宗祖法然上人800年大遠忌を記念して

さださんに依頼されてできた曲らしい。

法然共生(ともいき)イメージソングの曲だそうだ。

さださんが「僕は浄土真宗なんだけど」って話していたのも

印象的だった。

私が生まれてきた訳は~の繰り返しが優しく耳に残る。

「「幸せになるために誰もが生まれてきた」というフレーズは譲れません」

というさださんのコメント(浄土宗のHPで読みました)も、

うむうむと読ませてもらった。

実際に歌われているのが「幸せになるために誰もが生まれてきたんだよ」

という優しい呼びかけだというのも嬉しい。

曲が作られたのは、東日本大震災の前年だけれど、

震災に遭われた人、津波で家族を亡くされた人に、

優しく寄り添うような曲であると思う。

日本人の笑顔は、心づくし、心遣いから生まれるという

小泉八雲の文を交えたエピソードにも惹かれた。

 

胸のもやもやが晴れずに書き散らした感満載の

一昨日の記事を、もう一度読み返してみた。

やっぱり、こう・・・余白がないなぁと反省。

 

たぶん、その場で言葉が出てこなくって、

伝えられないということに、かなりストレスというか

プレッシャーを感じている。

言葉にしなきゃ伝わらないけれども、

何を言っても、自分が思っていることとは

どこかずれてしまうような気がするのだ。

口から出てくる言葉は…。

言い訳になるが、それで、できたあの文章である。

個人的な、それも、読み手が限りなく限定的な文章になるが、

あれを読んで、全く関係のない人も、

その背景を想像し、思いを巡らしてくれるというのも、

悪いことではないと思っている。

 

本当は、直接しっかりと伝えなきゃいけないんだろう。

でも、やっぱり、その場で自分の心にピタッと来る言葉を

発することは容易なことではない。

そこで発した言葉が、自分の心の中に地雷として

埋め込まれることだってある。

人間は、忘れることで救われている部分が多々あると思うが、

相手が忘れても、自分のほうは忘れられなくて、

自分自身が傷ついていくということもある。

 

11日、生きてることについて、優しさということについて、

心の中の余白について、考えながら、洗濯物を干した。

答えが出るのは死んだとき…亡き大分の祖母の言葉を思い出す。

答えが出なくても、焦る必要はない。

ただ一日一日を、淡々と、自分に正直に生きるべし。

今日はチョキチョキの日

昨日、夜なべをしたが、さすがに一晩では終わらぬ量。

朝寝坊覚悟で2時過ぎまで頑張ったが、

三割も終わらず、

土日の分もあるのだろうと、あきらめて眠る。

 

朝寝坊の予定が、6時過ぎにS氏が起きて

朝ご飯を待っているようだったので起床。

 

土日の分かもしれないが、今日は終わらせる。

買い物行くことくらいしか予定はないから、

今日中に終わらせることが出来るだろう。

 

今週の内職は、細かいもの、簡単なもの、

いろいろあったが、昨日受け取った分は

チョキチョキはサッと終わるが、

ベリベリと不織布をはぐ作業が大変。

初めての作業ではないので、

時間がかかることは予想できているのだけれど、

それでも、今日中には終わらせよう。

明日は、完全フリーにして、大物の洗濯をあれこれやりたい。

気持ちをすっきりさせて、来週に臨もう。

いつまで言い続けるか

如何ともし難い・・・

その言葉が適当かどうだかわからないが、

今の自分には、その言葉しか見つからない。

どう対応したらいいのだろう?

 

もう、今更、どうしようもないじゃないの。

いつまで気にし続けるの?

と、言ったところで、慰めにもならない。

でも、自分のことを「ダメな・・・」という人に、

何を言えば、気持ちが救われるのかわからぬので、お手上げ。

 

よく、相談をする人は、自覚はないが実際は

自分の欲しい答えが存在する。

それを後押しする答えを欲しがっていると

聞くけれど、本当だろうか?

 

私は自分のことを、人を元気にしてあげたいとか、

勇気づけたいとか、そういうことが、

できる人間ではないと思っている。

だから、私に何が求められているのか、

その、求められているものが、私に言われましても…

という内容だと、ほんと、

如何ともし難い・・・だ。

 

そして、自分には、対応できないのであります…

と思っていても、それを伝える術を持たない、

コミュ障なアラフィフである。

 

隣にいて、聴いてあげることはできるが、

同調を求められているのなら、

ちょっとまった!である。

いいかげんな「そうだよね~」を言えない、

ひねくれ者であることは、

近しい人ならわかっているはずなんだけど。

逆に「そんなことないよ~」って言葉を

求められているなら、なおさら・・・。

 

思ってもいないことを口にして、

あとで、自分を責めるようなことはしたくない。

まぁ、人間は悩むようにできてるんだろ、ってことは

よくわかっているのであるが、悩むのと、

自分を卑下することは別じゃないか。

私は、自分が愚かであっても、

それはそれで、受け止めて、

そのことで、自分を卑下したくないし、

もちっと、楽しく(楽に)生きてよかろうもん、と思う。

 

昔、姉に「悲劇的風な自分に酔うな!」みたいなことを言われ、

ピカーン!と頭の中に閃いたのであった。

悲劇のヒロインというのは、

まぁ、なんだか美しい人が多いのである。

ちんちくりんな人間は、どこかしらもともと

悲劇の種をもっている。コンプレックスともいうけど。

悲劇のヒロインは、悲劇とは縁がなさそうなのに

悲劇と遭遇するから悲劇のヒロインになりうるわけで、

実際、一般人は、何かしら悲劇的要素を持っているのだから、

それをもとに、およよよ・・・となったって、

悲劇のヒロインにはならない。

誰だって辛いし、苦しいし、孤独だし。

それを受け入れたり、受け流したり、乗り越えたりするのが

生きてるってことだろう。

 

おそらく、このブログも読むであろう、

私の知人の辛いことが、いつまで辛いことであるかは、

彼女自身にしか、いや、彼女自身もわからないことかもしれないが、

その辛いことは、彼女が自分自身で辛いことにしていると、

私は確信している。

自分で選択してきた道だから、それは、

受け入れるしかないんじゃないか。

もし、同じような立場にいたとしても、

彼女の感じる辛さを、私は感じないだろう。

でも、その選択をした自分を責めたって、

どうなるものでもないし、

その選択が間違っているとも思えない。

もし、間違っているとしたら、今なら戻れるだろうに…

と思わないでもない。

 

自分をダメな奴と思ったっていいけど、

それを人にぶつけたって、何の解決にもならない。

だって、「ダメな自分」と思っているあなたのことを、

「ダメなあなた」とは思っていないのだから。

如何ともし難い・・・と思われるのが関の山。

そんなことより、自分が思っているダメな部分を

打ち消すものがないか、

自分の良いとこ探しなんかをしたほうが、ずっといい。

人に自分のダメさを否定して欲しくば、

自分でダメな自分と思うのをやめるのが先だ。

 

って、いったい私もいつまでそういうことにこだわるのか。

彼女が、自身で「ダメな女」と思っているのなら、

そうなんだろうと受け入れてもよかろうに。

だけど、自分の周りに、自分を卑下する人がいると、

なんでか、自分が責められているような気がする。

あんたは、ダメな人間なんかじゃないんだよって、

そういうことを、言ってあげられない自分が。

だけど、自分で「ダメな」っていう人を、

「そうじゃないよ」って、なんか違う気がするんだもの。

ダメじゃない自分を見なさいよ。

大体、ダメじゃない部分がない人間なんか、いるもんか。

 

ということで、彼女がこの記事を読んだら、

もちっとは、前を見て、周りを見て、

「ダメな自分」と考える自分から、脱却して欲しい。

「ダメな自分」がどういう貴女なのか、私にはわからないので、

ダメじゃない自分を生きたらいいじゃん、

としか、言えませぬ。

 

彼女が「ダメな女」といった「オンナ」の部分に

なんか言い知れぬ気味の悪さを感じ、

過剰反応してしまい、上手く説明できなかったから、

今日は思いつくまま記事にしてみた。

こういう記事を、笑い飛ばしてくれるくらいに

元気になってくれたらいいんだけどなぁ。

だいたい…「ダメな自分」って自己評価、

必要なのかねぇ。

欲はなく

宮澤賢治の「雨ニモ負ケズ」も、

どこかTAOに通じているなぁと、ふと思った。

 

慾ハナク 決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

 

とても難しいけれど、

サウイウモノニ ワタシハナリタイ

と、賢治せんせいがおっしゃっているように、

生き方の理想であるのだろう。

理想は大切だ。

 

 

今日は、仕事がお休みで、内職の量は通常通り。

受け取りに行ってからすぐに始めたが、

夕飯の支度をするまで、結構時間がかかった。

これが、仕事に行った後だと、午前様になることも

しばしばなのだが、

睡眠欲というよりも、自分がやりたいことがあったりすると、

もったいなくって、眠っていられるか、

という気持ちになることがある。

しょうもないことだが、本を読みたいとか、

録画しているTV番組を見たいとか、

考え事をしたいとか・・・。

台所の片づけとか、洗濯物をたたむとか、

そういう実際にやらなきゃいけないことではなくて、

ホント、しょうもない、いつでもいいじゃんと

思わないでもないことなのだが、

自分にとって、その、やりたいことは、重要なことである。

ずっと、そうやって、睡眠時間を削ってやってきたことが、

内職によって、後回しになっていることは、

かなりのダメージで、更に睡眠時間を削ってでも、

やりたいことであり、やらねばならないと思うことだ。

 

内職は、それはそれで、やりたいことの一つだし、

これは、後回しにできないことなので、

平日は毎日続くだろう。

少しだけ内職をやっている最中も、余裕ができて、

いろいろと考えを巡らせながらやっているが、

本当は、それはやってはいけないことだなぁと思う。

なにか手仕事をすること自体、祈りであると考え、

そのことに集中すべきだなぁとも思うのだが、

そこは、慾が出てしまう。

~しながら、っていうのは、いいんだか、悪いんだか…。

 

とにかく今は、睡眠欲や食欲よりも勝るものがあって、

そっちに気持ちが向けることが、

自分らしく生きることのように思う。

うん、そういう時期があったっていいと思うし、

そういう時期があるのは、自然なような気がするな。

読んだ本や、聴いた言葉や、美しい映像や、

そういうものが、睡眠や食よりも生きる糧になることもあるもんだ。

 

しっかり食べて、しっかり眠って、

という知人の言葉に、「はい」と言えなかった

自分の中の気持ちを掘って探ってみた結果、

そういうことに行きついた。

元気に過ごせるくらいの睡眠と、食事はとれている。

寝すぎ食べ過ぎだったから、

普通に生活をしてみたら体重が減ったってこと。

いらないものまで取り込んでいたんでしょう。

娘の母子手帳を見て見たら、

初回の検診時の体重が、45.4キロだった。

そこまで戻るつもりはないが、

10キロ痩せても、なお、あの頃のベスト体重より、

まだ数キロも多いではないか。

もっと、スムーズに動けるようになるに、

身体から不要なものは捨て去りたい。

そうしたら、もっといろんなことがスムーズにクリアに

考えられて、行動に移せると思うんだけど。

これも、慾かしらねぇ・・・。

苦海浄土の一回目

昨夜、100分de名著を視聴。

『苦海浄土』の一回目。

タイトルだけは知っていたけれども、

開けない本だった。

逃げてたんだな、あのタイトル、どうも恐ろしいから。

 

でも、昨日、夏川結衣さんの朗読を聴きながら、

若松英輔氏のお話を聴きながら、

また、強烈なパンチを食らったような伊集院氏を観ながら、

ああ、これは紐解いてみないと始まらないなと思った。

 

石牟礼道子氏の名前も知ってはいたけれども、

何も読んだことがない。

水俣病のことを書いた…くらいしか。

ただ詩を嗜む専業主婦だったかたという事実だけでも、

『苦海浄土』は、石牟礼氏のお身体を借りて生まれてきたもので、

石牟礼氏にとっては、天命であったのではなかろうか。

 

それにしても、昨日の番組は私にとっては永久保存版。

夏川結衣さんって、きっと、熊本出身の方なのだな。

生まれてこの方、49年間九州に住んでいる私に

(そのうち1年間は出ていたけれど)

すっごく自然に、すうっと言葉が入ってきた。

熊本の方には、どうだったかなぁ?

 

指南役の若松英輔氏もとっても良かった。

昨晩遅く、呟かれているが、

そのことについても、とても真摯な方だなと受け取れる。

それから、伊集院氏もね、毎回思うけれど

豊かな人だなぁと、昨日は改めて思った。

 

次回も楽しみ。

 

石牟礼氏の『苦海浄土』とともに、『あやとりの記』も気になる本だ。

新装版 苦海浄土 (講談社文庫) 石牟礼道子『苦海浄土』 2016年9月 (100分 de 名著) あやとりの記 (福音館文庫 物語)

 

『苦海浄土』は、いろんな出版社から出ているが、

どれが読みやすいかなぁ。

TAO

老子の「TAO(道)」という哲学的な概念にうっとり。

バカボンのパパと読む「老子」<バカボンのパパと読む「老子」> (角川SSC新書)

 

無為自然」も素敵。

私が今持っている理想と、すごく近い。

紀元前というはるか昔から、このような考え方を残している

というのも、物凄いことだなぁ。

そして、その考え方に今更出会ったことにもびっくりだが、

今だから、自分の心に留まったということでもあるだろう。

 

自然の流れに任せ、ありのままの自分で生きていくこと。

それでいいのだ!

と、バカボンのパパも言っている。

実践編を読むのが楽しみ。

 

TAO(道)という捉え方

いろんな宗教にも通じるところもあり、

また、逆だったりもするか…。

春秋戦国時代という時代に生きた人のようであるが、

戦いが当たり前にあった時代に生きるには、

あまりに平和主義で、生きづらくはなかったかしらねぇと、

思うのだけれども、

何千年も経っても尚、人の生き方に影響する言葉を残すって、

凄いことだなあ。

うん、今の時代だから、余計に響くのかもしれない。

ありがとう、老子さま。

そして、ありがとう、ドリアン助川氏。

 

かなりの感動!

明日は、知人のお誕生日。私より4つ年上のお友達。

彼女は、最近いろいろと辛いことがあって、

いつも寂しいともらすので、お誕生日くらいは

一緒にお祝いしたいと思っていた。

『マチネの終わりに』と、『空白を満たしなさい』と、

どちらがいいかなぁと考えたけれども、

やっぱり未来は過去を変えられる!ってことで

『マチネの終わりに』をプレゼントにご用意。

 

 

職場の近くに薬院Muffinという看板があるのは、

ずっと気になっていたのだけれど、入るのに勇気が~。

遠くからでは、どこにお店があるのか、わからん…。

数日前、その薬院Muffinのお隣に、野菜が並んでいるのに気が付いた。

あれ?こんなところに?

看板には、浮羽の朝採り野菜と書いてあって、これも気になる。

 

というわけで、今日、ちょっと立ち寄ってみた。

まずは手前にあるお野菜屋さん。フレラボさんというお名前だった。

8月15日にオープンされたそう。

浮羽からってことで、新鮮な旬の果物もいっぱい!

お友達にデストロイヤーというジャガイモを一袋買い、

自分用にはカボスを一袋。

 

で、その奥の薬院Muffinさんへ。

いろいろとマフィンの説明をして下さって、

じっと間近で見られるショウケースで、

そのガラスのケースの中にあるマフィンを3種購入。

無花果アールグレイのマフィンをお友達用に。

定番である薬院マフィンをお友達のご子息用に。

そして、珈琲と白あんのマフィンを自分用に。

丸いガラスのケースに入っていたビスコッティも気になったが、

また次回の楽しみに~。

 

お昼休みに、お誕生日前祝をマフィンで。

無花果好きなお友達は、大変喜んでくれた。

私も、珈琲と白あんのマフィン、とっても美味しくいただいた。

次は定番の薬院マフィンを食したい。

 

薬院Muffinさんも、フレラボさんも、

なんだか、お買い物をした後に、また行きたくなるような

雰囲気があったのだが、じつは、食べて感動!だけではなかった!

 

さっき、薬院MuffinさんのFacebookを見つけたので、読んでいたら、

あの無花果!フレラボさんの無農薬無花果を使って

作られたと書いてあるではないか!

わ~、な~んか、いいなぁ~。かなりの感動!である。

立ち寄ってよかったぁ~。

あの無花果のマフィンでお誕生お祝いできてよかったぁ~。

申し訳ないが、まるで自分の誕生日でもあるかのように、

ハッピーな気分になったのであった。

 

正直、薬院Muffinさんもフレラボさんも、

自分的にはお値段が少々お高いのだが、時々立ち寄るお店になりそう。

こじんまりとした佇まい…応援したいし、

ああいうお店は元気をもらえていいなぁと思った次第。

 

ここで、写真でも載せたらよいのだろうが、

しっかり撮るような技量もないので、

ぜひ、薬院MuffinさんのFacebookをご覧いただきたい。