とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

凄い

星野智幸氏の小説って読んだことがないのだけれど、

つぶやきはよく見かける。

今月末に氏のコレクション4巻のうち、2巻が出るそうで、

もう、店頭に並んでいる書店もあるようだ。

この、表紙がなんかいいなぁと思って・・・。

星野智幸コレクションI スクエア星野智幸コレクションII サークル

パッと見、版画なのかな?と思った。

白黒の絵を見て、版画と思うのは、素人だからなのだろう。

よく考えたら、あの細かい線を版画でって…(笑)

山福朱美さんの版画かな?って思ったんだけど。

 

一体、誰の作品なんだろう?って。

パソコンって、そういうの調べるのに、ほんっと重宝する。

武盾一郎(たけじゅんいちろう)という人のペン画らしい。

武氏のツイッターでは、そのペン画たちは「線譜」と呼ばれていた。

凄いなぁ。素敵だなぁ。

ペン一本で、こんな表現ができるのかぁ…って。

武氏のツイッターに、第3巻「リンク」の表紙も

写真がアップされていたが、それもまた素敵。

 

で、こんな装丁だと、やっぱり気になるし、

手に取ってみたくなる。

星野氏の作品が、どういう感じのものなのか知らないから、

余計に気になる。

この秋、手にしてみたい本。

でも、今、本屋に行ったらいかんな…と思う。

なんせ、4冊そろえたら、諭吉さん一枚じゃ足りないもの。

どこか、近くの図書館に入るのを、

心を落ち着けて待つとしよう。

 

つぶやきは難しい

去年、8月、平野啓一郎氏やふなっしーさんの

ツイッターのつぶやきを追うために

アカウントを登録した。

最初は、つぶやくことよりも、本当に、

数名の方のつぶやきを追うためだけの

アカウントだったのだけれど、

時々、いいねをつけたり、本のことなんかをつぶやきだし、

最近は、リプなんてのもやってみたりして。

 

スマホを使ってのツイートではないので、

つぶやきとは言えないくらい、タイムラグなんかがある。

また140という文字制限に、

文字制限なしのブログを10数年やってきた私は、

なかなかうまくつぶやけないが、

言いたいことをぎゅっとまとめるという、

ブログとは違った文章の書き方に、

悩みつつも、ときどき、つぶやく。

あと、スマホではないので、写真をあげることは極力しない。

 

ツイッターは、その写真も、すごく重要な情報だと思うけれど、

私の場合は、言葉を探ることが多いような気がする。

自分が写真を撮るのが、苦手ということもある。

写真で、パッと見、お!と目に留まるものは、

確かにあるし、例えば、本などは、その表紙デザインとか、

どこどこ出版の文庫であるとか、そういうのが、

一目瞭然だから、本の表紙は私もブログで使うけれど。

文字数が限られているから、写真を載せるのも、

わかるような気もする。

でも、私は、どちらかと言えば、文字を追っている。

 

小説家さんのような、文章を書く人たちのつぶやきは、

なぜか、つぶやきが長めである。

言いたいことがいっぱいあるからだろうなぁと、

勝手に思っている。

それでも、140文字の制限があるので、

きっと、削りに削ったり、ツイートをいくつも続ける

ってやり方になるんだろうなぁと思う。

 

逆に、スマホだと、写真を撮って、UPするのが手軽だし、

伝わりやすいと思って、写真のみっていうつぶやきもある。

見たこともないようなものは、実際写真があったほうが

伝わりやすい。

でも、その写真情報は要らないや、って思うつぶやきも多々ある。

 

外に出したい気持ちとか、誰かに知って欲しいとかいう気持ちが

あるから、ブログとかツイッターとかやってるんだろうなぁ

と思うのだけれども、時々、私、何やってんだろう…

って思うこともある。

誰に、何を伝えたくて、こんなこと、書いてんだろう…とか。

 

でも、実際に人と面と向かって話すときと、

こういう電波を使った一方向的なやりかたの、

自分の感じ方とかの違いがわかって、結構面白い。

全く知らない人と、共通の考え方をしているなんてことに気づいたとき、

あ、同じようなこと思っている人がいるんだって、

ちょっとうれしくなったり。

独り、閉じこもった生活をしている人でも、こういうところから、

外に出ていけるって可能性なんかも感じたり。

 

SNSでの出会いというのは、人生をかえるくらい

大きなものもあるよなぁというのは、アラフィフのおばばでも

実感するところである。

ようは、その出会いが、自分に与える影響について、

自覚し、考えているかということは大切で、

様々な事件の報道を見て、ときには、

悲劇的な結末になることも私たちは知っている。

悲劇的とは言わないまでも、傷つくこともあるだろうし。

でも、SNSでの知らない人の一言で、救われることだってある。

 

良い面も悪い面もあるが、

自分なりに考えて使うことができたら、

本当に、素晴らしいツールなんだよなぁ。

でも、やっぱり、つぶやきで、何かを伝えることは難しい。

私のブログとツイートだと、

同じ人間って、もしかしたら思われないかもしれない。

いつの頃からか、読書の詳しい感想などは、

つぶやきでは無理と思って、ツイッターのアカウントから、

このブログへリンクをはったが、

ここから、ツイッターへリンクしていないのは、

自分でもなんだかわからない理由があるように思う。

だけれど、別にブログの私とツイッターの私を

別人格を装ってやっているわけではないので、

いちおう、ここからも飛べるように

リンク張ろうかなぁと思っている。

とりあえず、ここから↓どうぞ。

140字に苦しむとみいの拙いつぶやきに興味がある人は、

とんでみてください。

 

今、4分の1

昨日、今日と、読書の時間が取れて嬉しい。

『葬送』も順調に読み進めることが出来ている。

ゆっくりゆっくり読んでいる。

ショパンドラクロワの時代は、

今よりきっと、ゆっくりと時間が過ぎていたのではなかろうか。

 

彼らの時代は、手紙のやり取りが、伝達の主な手段で、

よく、手紙を書くという記述がある。

実際は時間は同じだけあるはずなのだけれど、

一体、何に使っているのか、

私の時間はあっという間に過去になる(笑)。

 

ドラクロワの偏屈さとか、頑固さとか、

頭の中であれこれ考えてはいるけど、

全部を表に出さないとか、あとで言ったことを

思い出してはあれこれ悩むとか…

他人事とは思えない。

あんたは私か?!ってところがあって、

絵心は全くないので、絵画の話は出来そうもないが、

一度ゆっくり議論したい…なんて思う。

今はショパンよりも、ドラクロワ寄りで『葬送』を楽しんでいる。

 

この本を読むのに、いつものベッドで寝そべってスタイルではなく、

辞書を引き引き、インターネットで絵や音楽を調べながら、

という真面目な読書スタイルをとっている。

初めの50ページくらいは寝っ転がって読んでいたのだが、

ゆっくり、じっくり読もう!と決めたから。

いや、実は、平野氏の使う言葉が、私にはちょっと難しめだから。

国語辞典を引きながら読んでいると、

なぜこの言葉を使ったんだろう?どうしてこの漢字を使ったんだろう?

って不思議に思う言葉が結構出てくる。

例えば、体調が回復(快復)するという場合、「恢復」という漢字が

使われているのは、おそらく何か意図があっての事かなと。

そういう、日常で使われない方の漢字を使われているとか、

同じ意味なら、もう少し一般的な言葉があるのでは、と

思われる言葉がよく出てくる。

そういうのも、辞書を引きながらだから引っ掛ることかもしれない。

その時代とか、空気とか、そういうものを

表現するのに、この言葉でなければならない何かが

あるんだろうなぁと思いながら読んでいる。

いちいち読み方なんかも調べる。

読めない漢字というのは、漢和辞典で総画で調べるという方法が

あるのだろうが、見当がつくものは国語辞典で、

なんだかよくわからない漢字は、PCのIMEパッドを利用している。

手書きで書いて、予測文字が出てくるアレ。

あれは、なかなか使える。

あと、字が小さくて、画数の多いものがどういう字なのか

わからないときに、メモパッドで、フォントサイズを

48とかにして入力すると、はっきりわかるので、

もやもやから抜け出せる。

 

また、とても面白い文章に出会ったら、細い付箋を張り付けている。

あとからもう一度読み返すときに便利だ。

ドラクロワの心の中の呟きなどは、本当に面白い。

これは、平野氏が思っていることなのかなぁとか

そういう風に感じるところもある。

 

そういうことをやっているので、この本は、

通勤の伴には到底できない。

第一、もう、本当にしっかりしたハードカバーで、

最近の平野氏の単行本はどちらかというと

ソフトカバーが多いので、時代と、作品の重みを感じつつ

じっくりと楽しんでいこう。

気が付いたら、4分の1を読んでしまったことになる。

登場人物の名前がなじみのない、カタカナの名前で、

しかも、めっちゃたくさんの人が出てきて、

整理しながら読むには時間がすごくかかるだろうと思っていたし、

初めの頃はそうだったのだけれども、

どうも、ドラクロワの為人が、気に入ってしまい、

身近に感じてしまったおかげで、楽しい読書になっている。

メモした言葉、漢字が、物凄い数になりそうで、

ボキャブラリーの貧困さを解消できるか?!と、

ちょっと、期待しつつ。

20160919

福岡市より、内陸のほうに入るので、

今回の台風(16号)は大したことなかった。

ちょっと風が強いかな、くらい。

それなのに、福岡市や、沿岸部で暴風警報が出ていたため、

高校生の息子は臨時休校。

9時ごろ、小学生たちはぞろぞろと学校に向かっていたのに。

 

昨日、図書館に行って、リクエストしていた

メメント・モリ

 

を受け取ってきた。

実は、これは、雑誌に掲載されたときに、図書館に行って

その場で読んだのだが、やっぱり、ハードカバーよねぇと。

ちょっと待ったなぁ。予約順を待っている人が結構いたので。

それから、通勤のお伴に文庫を一冊。

新編 日本の面影 (角川ソフィア文庫)

 

あれ?表紙が違う。でも、角川ソフィア文庫

 ラフカディオ・ハーン小泉八雲さんのことだが、

私が小泉八雲さんの怪談と出会ったのは、

小学2年生の頃だと記憶している。

耳なし芳一』というタイトルの本で、中に、何作も

怪談が入っている低学年向けの本だった。

耳なし芳一」は、強烈な印象だったが、

鳥取のふとん」が忘れられない。

そして、小泉八雲さんが日本人ではないと知った時の驚き!

 

数日前に、さだまさし氏のライブの動画で、

小泉八雲の『日本の面影』に、微笑みについて

書かれているということを知り、

興味が沸いたので、借りてきた。

外国からきて、日本を気に入って、

日本人と結婚して…という人が、

当時の日本をどのように見ていたのか、気になる。

もちろん、その当時のことなどは、私にとっても、

知らない日本であるからして…。

 

あと、二冊借りてきたが、これらは、自分のためではない。

一冊は娘のために編み物の本。

もう一冊は、これも、人に紹介するために前回借りていた

ドリアン助川氏の本。

 

実は、昨日、『葬送』を辞書を引き引き、104頁まで読んだ。

自分にとっては、早すぎもせず、遅すぎもせず、いいスピードだ。

今、ドラクロワがA・ティエールの家に出掛けているところ。

ドラクロワの絵を、ネットで確認しながら読んでいる。

ネットって、こういうところは便利だな。

ショパンの曲も、どんな曲かすぐに聴けるし。

でも、そんなことしなくても、この世界に入り込める読者も

いらっしゃるのだよなぁと思うと、大変羨ましい。

私なぞは、ドラクロワの絵を検索し、ショパンの曲を検索し、

そのうえ、わからない言葉や、読めない漢字まで調べながらの

読書となるので、ほんとにもう、時間がかかるったらない。

しかし、久しぶりに、メモを取りながらの読書は、

ゆっくり、その世界観を楽しめているので、

それはそれでよし…としよう。

それにしても、わからない語彙をそのままスルーして

今日まで生きてしまった結果、

語彙力の貧困さを目の当たりにすることになり、

読書好きです、とか、平野氏のファンですとか、

公言は、控えようと心に決めた次第である。

 

ときどき、声に出すと、この人の作品も、リズムがいいなぁ

ってことに気づく。心地よいリズム。

昨日、NHKに2番組もでていらしたので、

どちらも見たが、語り口調が落ち着いていて、素敵だ。

朗読された広島での音楽会のものも見たが、

あんな感じで『葬送』を読んでもらっている気持ちになって、

少しずつ、読み進めているのである。

台風のおかげか、かなり秋っぽい風が入る夜。

落ち着いた読書の時間がとれて嬉しい。

秋!大好きだよ~!

 

 

20160915

そういえば、木曜日に図書館に行ったのだった。

娘が借りていた本を全部読んで、

デイケアの時に読む本がないというので。

 

私は借りていた本を返し、

2枚組CD♪ショパンな一日と、

図書』の7月、8月号と、

葬送と並行して読もうと思って、

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こちらを借りてきた。

モノローグは、もう、何度か借りてきて、

あちこち読んでは返し…している本。

アマゾンでは初エッセイ集となっているが、

『文明の憂鬱』のほうが先に出ていた記憶が。

 

この『モノローグ』のⅢ自作解題の中にある、

『葬送』について のたった4頁のために借りてきた。

というのも、なかなか読み進められない『葬送』を、

何とか読破したい!と思っているから。

これまで、何度も借りては返却を繰り返した『葬送』の

ハードカバーを中古で手に入れはしたが、

返却期限もないということもあって、

読もう!という気持ちが続かないもので、

夏の課題に決めたものの、この夏の猛烈な暑さとともに、

原稿用紙二千五百枚というボリュームからも圧され、

結局、読み進められないまま。

 

ショパンを嗜む』を読んだ直後は、これはいける!

と強く感じ、ショパンの曲をあれこれ聴きもしたにもかかわらず、

いまだ持って、一部の頭のほうをウロウロしている。

 

『モノローグ』の『葬送』について

新潮社の月刊誌 波 に掲載されたエッセイなのだが、

平野氏が、この作品をどのような意図をもって書かれたか

を読み取ることが出来る。

また、準備段階から4年ほどを費やしたこの大作について

向かい合う毎日の孤独さが窺えるのだが、

それについて、平野氏はこう書いている。

―――自分の全身全霊を傾けて取り組んでいる仕事が、

ただ独り自分にのみ有益であり、他人のためには全く無益である

という時、人はその孤独に耐え続けることが出来るでしょうかーーー

 

平野啓一郎氏は、なぜか、デビュー当時から、

どこか惹かれる作家であった。

彼の作品を追いかけて18年ほど経つが、

この『葬送』を読めていないというのは、

ファンとしては、残念すぎる。

平野氏が、この作品を書くための下準備に1年ほどかけたそうなので、

私もこの作品を読むために、いろんな方向からアプローチを試み、

気持ちを高めて、グワーッと、作品にのめり込みたい。

 

毎日は、雑多なことが多くて、なかなか深く入り込めないところが

悩ましいところではあるが…。

いっそのこと、ハードカバーは置いておき、

文庫を購入すれば、通勤の伴として、読み進められるのでは

と思いもしたが、いやいや、これを電車の中で読むのは

私には無理…。

 

とにかく、『葬送』について を読んだことで、

読みたい気持ちをさらにアップさせることに成功した。

あとは、時間を上手く工面すれば…。

ってことで、今日から明日にかけ、台風16号が近づくようなので、

ショパンに会いに行くかぁ。

 

今日は、娘のために予約していた本が準備できていると

連絡があり、通常休館日の月曜だが、祭日と重なり

開館日になっているので、10時きっかりに図書館に行く予定。

 

苦海浄土の二回目

もう、明日には3回目の放送が・・・。

金曜日の夜、録画していた2回目をようやく観た。

 

近代を「人格」として捉える。

ここが、第2回のポイントであったろうか。

 

人間が、楽な暮らし、豊か(と見える)暮らしを求めた結果、

見落とされた安全。

そして、原因がわかってからも、しばらく放置されたという現実。

その楽な暮らしを手放しで喜んできた私たちにも、

実は責任があるのだということに、ううむ…とうならされた。

 

高度成長期の、さまざまな公害だけにとどまらず、

現在を考えてみる。

自然を壊しながら、人間だけが、突き進む文明の進化。

番組を観ながら、あぁ、このことは、あれにもつながる、

これにもつながる。そして、自分にも責任がある…って。

 

とくに、安全でないことが分かってからも、

結局有機水銀を流し続けた、だれも止めなかったというところは、

今の原発の問題と、全く一緒ではないかと。

あれが、危険なものだということは、東日本大震災の時に、

思い知らされたはずなのに、どうして使い続けるのか。

そこに、『苦海浄土』で近代の闇への警鐘は、活かされていない。

現在稼働している川内原発は、水俣市から50キロと離れていない。

 

立ち止まる、スピードを落とす、時には逆行(に見える)する

その勇気を持たねばならないという伊集院光氏の言葉を、

自分の中にも、しっかりと刻み付けておこう。

〝個〟であることの難しさとともに。

 

あと、患者を番号で呼ぶということに関しての

若松氏の説明も、聞き逃してはいけない部分。

人が、人を番号で呼ぶとき、「量的」な扱いしかされず、

「質的」な扱いを受けることがない。

つまり、そこで「私」という人格は無いことにされる

ということなのであろう。

いまや、私にも、家族にも、この国の人たちすべてに

番号が振られている。

このことについても、疑問を投げかけるべきなのでは、と思う。

今更…と、放置されることは、危ういことだ。

無花果

二週間ぶりに薬院Muffinさんとフレラボさんに行った。

知人にプレゼントした薬院Muffinさんの無花果のMuffinのことが

ずっと気になっていて、

フレラボさんの無農薬無花果がどんなものか

食べてみたいと思ったので。

 

子どもの頃、庭に一本だけ無花果の木があって、

祖母が好きだったように記憶している。

何度かもいで食べさせてもらったことがあったろうが、

私は桃のほうが好きだと言ったような気がする。

もう、40年以上前の記憶。

 

近所に、無花果の木が植えてある家が2軒あって、

実がなって、色づいてくるも、

次に気が付いたときは、その実はなくなっている。

その家の方が食されているのか、鳥が食べているのか…。

 

スーパーに産直品で売っていることがあるが、

いいお値段するので、手を伸ばしたこともない。

記憶にある生の無花果は、ちょっと癖のある香りで、

じゃりじゃりしていて、柔らかすぎるほど柔らかい。

甘みはあるが、ぼんやりとした甘さ…なのである。

あの味を、とても好きそうに食べていた祖母のことを、

横目で見て、無花果はお年寄りの食べ物だな、

って、私はきっと思ったに違いない。

 

知人が、とても好きみたいだったので、

これは、この時期に美味しい無花果を食さねば!って思って、

6個入りを買って、二人で分けた。

冷蔵庫に入れて、ちょっと冷えた無花果を、一人で食べた。

手で剥くことのできる皮、熟れた桃のよう。

うむ…美味しい。

食べながら、祖母を思い、

無花果がおいしく感じられるほど年を取った…」

と思ったが、それは、幼い私の勝手な思い込みだな。

 

一つ味わって、旬の果物を食すって幸せだなぁと思う。

やっぱり、旬のものは美味しい。体が喜んでいる。

 

薬院Muffinさんでは、前回買わなかったビスコッティと、

4種別々のMuffinを、家族用に買った。

今日買ったのは、二種のチョコレートとバナナ、レモンクリーム、

ティラミス、今月のMuffinである栗。

無花果Muffinは、今回は生を買ったので、パス。

仕事から帰って、子どもたちとコーヒータイム。

おかげで、夕食を作りたくなくって、

簡単にベーコン&ホウレンソウのペペロンチーノ。

 

3連休を前に、ちょっと贅沢しちゃったなぁ~。

でも、後悔はしていない(笑)

だって、今週はチョキチョキバリバリを頑張ったも~ん。