とみいよむよむにっき

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「微妙」という言葉

「微妙」と、人の口から出たときに、最近嫌悪感を感じる。
いや、「微妙」すべてにいらっとくるわけではない。
ただ、自分が持っている「微妙」とは、
どうも違った雰囲気を持つ「微妙」が、
氾濫しているような気がする。


我が家にいる中・高生の子どもたちも、
この私がいらっとする「微妙」をよく使うし、
もしかしたら、自分も気づかないうちに使っているのかもしれない。
私が勝手にいらっとしているだけで、
本来、「微妙」にそういう意味があるのかもしれない。


ってことで、辞書を開いてじっくり読んでみた。
私が持っている中で、一番新しい辞書は
2005年に出た三省堂新明解国語辞典 第六版』


−細かい所に美しさ・問題点・重要な意味などがあって、
 単純な論評を許さない様子だ。デリケート。−

その次に[運用]とあり、
−「…は微妙だ」などの形で、
断定したり、明確な姿勢を示したりすることによって生じる
責任を回避する表現として用いられることがある−


読んでいて、私がいらっとする「微妙」は、
この[運用]の部分の、行き過ぎた使い方なのだろうと思った。
責任回避…別に、そこまで責任を感じなくていいところに
その回避を使うから、そんなとこまで責任逃れせんでもいいやん!
と思ってしまうのだと思う。


上の子の友達との会話。
「明日、〇〇〇に一緒に行ける?」
「え?ビミョー」
「そう。残念」
私と子どもの会話。
「ねぇ、ハンバーグの味どんな?」
「…ビミョー」
「そう…安い肉やったからね」
とか、
「新しいTシャツ買ってきたよ。どう?」
「ビミョー」
「あ、そう。じゃあ、私が着るよ」

あっ!!ここで気が付いた。
いらつくのは「微妙」ではなく、「ビミョー」なのだ。
−行けるかどうか、まだわからない−
ではなく、どうも、遠回しに「いけません」と言っている。
明らかに美味しくないって意味の「ビミョー」
明らかに好みじゃないから着ませんの「ビミョー」


行けないなら「行けない」
美味しくないなら「まずい」
自分の好みに合わないなら「好きじゃないから着たくない」
と、なぜ言わないのだろうか。


最近の若い人は、どうも傷つきなれていないのか、
はっきり断定されると凹むらしい。
しかし、はっきりした断定ではなくても、
あからさまに「ビミョー」という言葉で、
否定しているではないか…。
「ビミョー」って言葉で答えるから、
別に傷つかなくっていいんだよ〜みたいな
気配りをしているつもりなんだろうか。
ああ、それこそ「微妙」だなぁ。


「ムッティは鈍感やけん、はっきり言われても傷つかんのでしょ」
と、上の子に言われそうだ。
いやいや、十分、その遠回しな否定の「ビミョー」に
悩まされているんだが。
人のこと鈍感と断定できるのに、変な遠回しの「まずい」は
どう考えてもおかしいでしょ。
そういや、そのあなたの「ムッティ」呼びは、
外で使われると、大変恥ずかしいんだが…。
いつになったらお母さんと呼んでくれるんだい。
まったくもって「微妙」な呼び方だ。


「ビミョー」=「ゆるーいNO」
これが、若い人たちのつかう「微妙」だとしたら、
あまりに耳にする頻度が高いところを見ると、
そのうち、辞書にも載るかもしれない。
けれど、辞書に載ったからって、
私がいらっとしなくてすむかは、別だなぁと思う。


未明に何考えてるんだ、私。