とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

場合によっては

この歳になると、自分の価値観というものを
がらりと変えるのは大変難しい。
幼少期に種をまかれ、子ども時代に体験するあれやこれやを
咀嚼し、考え、篩にかけて吸収し、又は外に押し出し…
時には痛い思いをしながらも、
自分の中の価値観は少しずつ少しずつ固まっていく。

今の情報化と言われる社会の中で、
あれやこれやとメディアから流れ込む
大量の情報を、咀嚼し、考え、篩にかけるという
そういう能力を自分は持ち合わせていない。
遅れていると思われようが、
追いつかないものに、手を伸ばすということは
自分の価値観や核を崩壊させてしまいそうなので、
保守的な自分は、手を出さない。

地に足のついた生き方は、古いのだろうか。
きらびやかな生き方は勝ち組で、
地味な生き方は負け組か?
学生の頃バブル期であった私だが、
あの時中央からはるか離れた場所にいたことが
幸いしたのか、バブルだどうだったかよく解らない。
就職してあっという間に泡ははじけとんだ。
結局、バブリーな生活などなかったな。
あの時代は、どこかおかしかったのだと、
まぁ、よく耳にしたけれども、
日本の不景気が長く続いているとはいえ、
私の生活は学生時代からこれまで、
何ら変わっちゃいないように思う。
バブルバブルと言っても、その当時、
地味に生きていた人もいて、
みんな、身の丈に合った生き方をしていた。
バブルがはじけ、慌てた人たちというのは、
きっと身の丈に合った生き方をしていなかったんだろ、
と、私は思う。

メディアで、あたかもそれが、当たり前のように
流される情報を、判断の核も持たない子どもが
鵜呑みにするという危うい状況を、
大人はどう責任取って行けばいいのかね。

味の濃い食事に慣れると、そういったものが
美味しく感じられ、素材の味を楽しむことは出来ない。
賑やかで煌びやかな明るい場所が、
成功者であるような印象付けは、
この国を亡ぼしていくんじゃないか?
もっと、焦点を当てる場所があるはずでは?

と、こう書きながら、そこに焦点を当てられた時点で、
メディアがまっすぐ情報を流せばいいけれど、
きっと、メディアもその価値観で、
要る要らないと篩にかけて流してしまうんだろうと思う。
つまりは、メディアが流すものの向こう側を
各々で見つめなきゃいけないということだ。

自分の価値観は変わらない。
しかし、場合によっては…それだけの力を持った人の
言葉や行動や、時には、天災や事故や…
そんなものの前で、自分の価値観は
簡単に変わるものかもしれないなぁ。

消費、イベント、欲を煽るメディアのやり方に抵抗しつつ、
のんびりとまっとうに生きていきたいし、
見なきゃいけない現実はしっかり受け止めたい。
これからの子どもたちには、
情報が自分に必要なものかどうかを
ゆっくり判断する力を備えて欲しい。
時間に追われると、見たい部分が見えなくなるからね。

時代によって、住む地域によって、
価値観というものは変わっていくのが
当たり前なのだろうけれども、
人間として普遍的で、変えてはいけないことも
あるはずではないか。
もし、変わっていくことが進化だとみなすなら、
未来では、進化型の人間がいて、
それはもはや、人間と言ってはいけないのではないか?
なんてことを考える。
環境に合わせて適応していく生物。
そのうちに、人と人との争いや、
命を奪うことを、なんとも思わない進化型(?)の人間が
普通に出現してくるのかもしれない。
そう思いませんか、ダーウィン先生?