とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

人の動き

電車通勤は浅い。

学生時代は自転車だったし、

予備校通っていたとき1年間地下鉄で通ったことと、

結婚して3か月ほど電車で通ったことくらい。

今は、週に3日往復40分弱私鉄で通う。

前の仕事は8年ほど車での通勤だった。

車を運転する日常だと、なかなか電車に乗ることはない。

だから、今の仕事が電車通勤になったとき、

初めはかなり疲れた。

自家用車は一人だけど、電車は大勢の人が乗っているから。

人を気にしなくていいように、本を読む。

折角の時間だもの。40分間も本を読めるなんて素晴らしい!

たまに、本を閉じて、窓の外をぼーっと見る。

半年ほどで、電車通勤に慣れた。

 

朝の電車は、大体二人掛けの座席がずらりと並んでいるタイプ。

パートタイマーで人より通勤時間が遅いから、

3回に2回は座席を利用できる。

でも、一人で座ることはほとんどなく、

窓側にはすでに誰かが座っている。

朝はいつも、本を読む。大抵隣の人は、スマホを使っている。

スマホを使い慣れている若者は、大抵、片手でスマホを持って、

その持っている方の指先だけで操作する。

だから、スマホを持っているというのは、わかるけれども、

操作しているかどうかはあまり気にならない。

 

昨日は、私より少し年上の女性が隣に座っていて、

通路を挟んだ隣にも、同じくらいの年齢の女性が座っていた。

私が乗るより、前から座っていらしたその人の左手には

スマホが握られていて、彼女の右手が動いていた。

座って本を読んでいても、人の動きっていうのは感じるもの。

私より先に降りられるのだな、とか、

眠くてたまらないんだな、とか思うことがある。

昨日の女性は、二人とも

スマホ、スクロールしています!」って感じだった。

私の隣の女性は、私が右側に座ったからかもしれないけれども、

私の読んでいる本の左端のほうで、右腕が大きく動くのが

視界に入ってくるのである。

いえいえ、指を動かせば大丈夫ですよ、そんなに

腕まで動かさなくても…ってくらい、大きな動きだった。

思わず、めっちゃ大きなタブレットかなんか?と思うくらい。

隣に座っているから、意思表示かなにか?とも思ったが、

まぁ、普通にスマホをスクロールしていらっしゃるだけのようだった。

でも、こっちも本にちょっと夢中になってふと気が付くと、

隣で腕がぶんっと動くので、払われるのかとビクついたり(笑)

 

人って電車に乗っているときは、意外と動きが固まるというか、

お行儀よく座っている人が多くって、動きが少ないものである。

携帯・スマホをさわっている人も、本を読んでいる人(最近少数派)も、

脇はしめられている人が多いように思う。

揺れに対応するためもあると思うが、座っている人たちは

大体、肘までは胴体にくっついているような気がする。

動物の視力は、自分の身を守るためもあってか、

チラとでも動くものに敏感に反応する。人間だって一緒。

指先だって、動いているのは確認できるので、

ましてや、片腕が大きく前後させられちゃあ、

目がほおっておくわけがない。

たぶん、その人は、自分がスマホを使っている動きが

どんなものか、あまり気にしたことがないのだろうなぁ。

私が本のページをめくる仕草も、もしかしたら、

なんかカサカサうるさいなぁとか、思われているかもしれない。

読むスピードが遅いから、そう頻繁には頁はめくりしないにしても。

 

その人がどんな動きだったか、帰宅して試してみたら、

五十肩にちょっと響いた。

電車の中で、私くらいか、私より上くらいの女性だと、

大体、両手でスマホを操作していらっしゃる。

片手で簡単操作できるくらいに小さくなったスマホだが、

画面の大きさを求めて、ちょっと大きくなってきて、

指の長い人なら片手で操作できても、手の小さな人には

片手では無理…とかあるのかもしれない。

スマホを持ったことのない私には、よくわからないが、

あれくらいの大きさのものを操作するのに、

体を大きく動かすというのは、スマートホンのはずなのに、

てんでスマートじゃないなぁとか感じたのだった。

あの「スマホ使ってます!」感の強さが、私は苦手だ。

私も気を付けて、「本読んでます!」感を出さずして

読書に勤しもうと思った次第。

 

 

20160820

あぁ…先週の土曜日図書館に行ったのだった。

本を借りてきたのだった。

もう、1週間も経とうとしている。

『葬送』も進まぬまま…。

 

気を取り直して、借りてきた本。

バカボンのパパと読む「老子」  角川SSC新書 (角川SSC新書) バカをつらぬくのだ! バカボンのパパと読む老子・実践編 (角川SSC新書)

神国日本のトンデモ決戦生活―広告チラシや雑誌は戦争にどれだけ奉仕したか

 

あと、『図書』(岩波書店)の6,7月号。

 

図書』は、電車の中で読むのに、ちょうどいい。

軽いし、一遍が短いので、

電車の中で、切りの良いところでストップできる。

 

ちなみに今日、延長している『新潮』の6月号を

通勤の伴にしてみたが、書評、エッセイ以外は結構長いので、

20分の通勤では、なかなか入り込めない。

それに、『図書』の何倍も厚い。かさ張るし、重い。

あと、なんといってもお値段が良心的だ。

まぁ、自社の書籍の広告がかなり占めるから、

そこは、良心的な値段でなければ…とも思うが。

雑誌では『本の雑誌』なども、電車の中で読むのに良かった。

 

明日も図書館に連れて行ってと娘に頼まれている。

読みたい本は数多くあれど、読むスピードは落ちるばかり。

それに、じっくり読みたいし…。

さて、どこから時間を調達するか…。

 

読了

来月、若松英輔氏が100分de名著に出演されるので楽しみ。

今年1月の100分de名著のテキストを、

昨日電車の中で読了。

内村鑑三の『代表的日本人』の回はなぜだか、

見ていないのである。

1月の私は、別のほうに気持ちが向いていたのだろう。

 

いつ出会うか、どういう出会いかというのは、

あまり、大したことではなく、

必要ならば、自分に深く入ってくるし、

そうでなければスルーするし、

その時はヒットしなくても、出会うべきものは

いつかまた巡ってくるのだろうと最近思う。

 

この数か月の自分には、きっと若松氏の言葉が

凄く響くような状態なのだろう。

そういった意味では、読書の記録を読むと、

その時の自分の状態が振り返ることが出来ていいな。

 

岩波書店の雑誌『図書』に4月号から連載されている

エッセイもとても興味深く読んでいる。

 

 

盆前から読もうと挑戦している『葬送』だが、

盆前に初めの3,40頁を読んで留まっている。

ショパンを嗜む』を一気に読んで、そのまま

『葬送』の世界に入り込むはずだったのだが、

いかんせん、暑すぎた…。

まだ、今週一週間は物凄く暑いらしい。

せめて、夜だけでも秋の気配になれば

『葬送』気分になれるのだろうが…。

早く読みたいのに、やっぱり読めない。

いつ、その時が来るのか、楽しみに待つか。

 

課題

今日から、Fしゃんは、学校。

進路のための特別指導教室みたいなものがあるらしい。

夏休みの課題は、全部終わっているのだろうか?

7月の中頃、やっていたのは見たけれど、

あの頃、全部終わらせていたのだろうか。

 

私の夏の課題『葬送』読破は、まだまだ。

今気持ちが逸れているから、8月末までに読み終わるのは

無理かもしれないが、そろそろ、気持ちが戻ってきそうな

気配なので、今日から10日程かけて、

読み上げることが出来るかなぁと、

あの、厚い2冊を枕元に置いている。

 

渡辺和子さんの『愛と励ましの言葉366日』より、

8月9日の言葉をこの夏もう一つの課題にしよう。

 

ーーー人間にとって、人間関係の最も基本的なものは、

親とか、兄弟姉妹とか、お友達とのものではなくて、

自分自身との人間関係です。なぜ自分を愛することが

大切かと申しますと、簡単に言ってしまえば、嫌な人、

軽蔑しかできない人といつも一緒にいることは辛いからですーーー

弱っているのだろう

夜中に、若松英輔氏のツイッターを追って、

「独り」でいることの必要性を感じた今日。

20歳の頃からの、私の人生のテーマである「独り」だが、

ここしばらく、その「独り」が実現できずに弱っている。

 

誰かと一緒に生きているのは当然なのだけれど、

考えているときは、独りだと思っているし、

独りじゃないと、考えることが難しいように思う。

頭の中で考えているときの言葉は信じられるけれど、

ひとたび口から出てきた言葉は、もう、それは、

自分が深いところで考えたことではないような気がする。

建前というか…よく響かせようとしているというか…

そういう自分に気が付いたときに、げんなりする。

 

今日は、中島みゆきの好きな歌をピックアップして聴いた。

聴いていたら、若松氏の言葉とどこか重なっていることに気づいた。

今、自分が欲している言葉をもらった気分。

結局、20歳の頃の自分が得た自分の生きるための言葉は、

何ら変わらないんだなぁと思う。

弱っているからなのだろう。大変、沁みてくる。

あんまり沁みるので、あふれて、泣けて仕方ない。

しかし、まぁ、大声上げて泣ける場所は、今の自分には見つからない。

だけど、みゆきさんの歌で随分、心の汗を流させてもらった。

 

19歳の時、同じ予備校に通っていたⅠちゃんにもらった

中島みゆきの「臨月」と「予感」の録音されたテープを、

大学生の頃はよく聴いた。

もちろん、小学生の頃から中島みゆきの曲はいろいろ知っていたけれど、

アルバムは、この2枚が初めてだった。

 

「予感」の中に入っていた ♪ファイト! は、特別な歌。

サビの 

♪ファイト! 闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう

ファイト! 冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ   

のところはもちろん好きだが、19歳の自分に響いたのは、この歌詞。↓

♪私 本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で

転がり落ちた子供と つきとばした女の薄笑い

私 驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった

ただ怖くて逃げました 私の敵は 私です

そして、30年たった今でも、やっぱり、この部分は響く。

責められているような気にもなる。

♪ファイト! は、途中の歌詞に、九州の言葉だなという部分もあり、

いろいろ引っ掛る要素が満載で、

この曲が自分にいろいろ考えさせてくれたから、ずっと好きな歌なのだろう。

 

自分の持っているCDを聴いていたら、そういえば…と

中島みゆきの歌の中でも、自分の好きな歌をあれこれ思い出した。

それで、聴いてみた曲はこういった曲。↓

♪時代 ♪誕生 ♪糸 ♪命の別名 ♪旅人のうた

ヘッドライト・テールライト ♪二隻の舟

 

なにか、大事な選択があって、迷いがある時に

突破口を見出せる気がする曲たち。

すべての人間への、物凄く力強い応援歌たちだと思う。

若い人たちも、聴けばいいんのに~と思っていたら、

18歳のFしゃんは、カラオケ仲間がよく♪ファイト!を歌うらしく、

私が口ずさんでいたら、「お、仕事をもらわれへん、の歌」と言っていた。

やはり、世代を超えて、心に留まる歌のようである。

 

今は、自分の心が弱っているような気がしているが、

私を立ち止まらせ、また、歩きださせてくれる強い味方がいて、

背中を押してくれる。

きっと、数日もすれば、弱った部分は鍛え直されているだろう。

自分にとっての、力の源を与える何かを持っていることも、

生き易くするための一つの方法である。

 

毎日、いろんな人と接するから、

自分の弱い部分や、嫌な部分を引っ張り出されそうになる。

独りでいる時間に、そのことを思い出すと辛い。

そんな時に感じるのは、なぜか、罪悪感に似た感情。

 

きっと、どこかで無理をしているから、弱っているのだろう。

誰かといる自分を好きでいられるかどうかは大事なことだ。

どうも最近、人の言葉に持っていかれそうになる。

何も答えなきゃいいのに、なにかを求められているような気がして

自分の中で、ちゃんと整理できない言葉を発して、

それが、すごく情けない。

沈黙は金を貫けよ、と、自分で自分に言い聞かせる。

人に求められたとして、ホイホイ自分の奥のものを、

それも、熟してもいないものを手渡してしまうのは、

私が思い描いている生き方から遠ざかる。

それはきっと、嫌いな自分を増やすことになりかねない。

 

若松英輔氏の呟きや、中島みゆきさんの歌たちが、

やけに響いてきたのも、自分に必要な薬ってことに違いない。

「しっかりせんかい!」と、応援してくれる言葉たち。

誰に、というわけでなく、万人に送られるエールに、

彼、彼女の厳しさ、優しさを感じる。これこそ、愛。

大きな愛に包まれて、今日も夜更かし。

この数日の、私を引っ張る力

盆休みが終わり、水曜、金曜と通勤のお伴は

批評家・随筆家である若松英輔氏が講師

100分de名著のテキスト内村鑑三『代表的日本人』である。

内村鑑三『代表的日本人』 2016年1月 (100分 de 名著)

水曜は、第1回の西郷隆盛を読み、

昨日は、第2回の上杉鷹山二宮尊徳の部分を読んだのだけれど、

胸に響く言葉が多々あり、

電車で読むには、鼻をすすりながら…となるのが難点。

せめて、なるべく人の目につかないところで…と、

2日間は座席に座らず、ずっと端のほうに立って読んだ。

 

第1回 特に、感銘を受けた部分。

ーーー天の命は、誰の生涯にも呼び掛けている。

しかし、人間は、自分の思いで頭も胸もいっぱいで天の声が聞こえない。

そうした時、人はどうしたら天の声を聞き得るのかーーー

 

ーーー自分の力で何かをするのではなく、もっと大きなものの一部になる。

大きなものの働きに参与する、という生き方ーーー

 

ーーー私たちは一般に、祈ると聞くと何かをお願いするというイメージが

ありますが、内村の考えは違っています。

人は黙して、天の声を聞くことこそが祈りであるというのが、彼の、

そして西郷の基本的な考え方です。

自分のことを伝えている間は、天の声は聞こえないものです。ーーー

 

ーーー私たちは、自分にとって大事なことを考えるとき、

人との対話によって何かを見つけていくことができます。

しかし、自分との対話、つまり、天との対話によって

見つけることもできる。本当に見つけなければいけない答えは、

人からもらうのではなく、自分の中にすでにある。

西郷は、そのことをよく知っていた。ーーー

 

 

そして、金曜日は、第2回を読んだ。

この回は、上杉鷹山二宮尊徳の回。

 

ーーー困難に対応する力は弱きもののうちにすでに秘められているが、

しかし、それに何者かが、息を吹きかけない限り顕われてくることはない。

しかし、息を吹きかければ火と熱を帯びてよみがえってくる。

さらにそこに一本藁を入れれば、火はまたたく間に広がっていくだろうーーー

 

ーーー失うことを恐れて行動しないことがないよう、失うものがないところに

立ってみる。そうすると、人間はかえって、自分の中に失われざるものが

あることに気がつくことできる。ーーー

 

ーーー人は、人生の中で何度か、何かを失うという経験を強いられる。

しかし、「失った」を「奪われた」と捉えるのではなく、今まで見えて

いなかった大切なものを見出さなくてはならないときなのだ、

と考えることもできるように思います。ーーー

 

考えなければならないことや、自分の内をじっくり見るときに

必要なことが、ずらりと並んでいる。

上に引用したのは、ほんの一部。

 

そして、こんな時間になぜ更新しているかというと、

この夜中に、連続して、若松氏がツイッターにツイートされている言葉たちが、

厳しくも、あまりに心の中をあったかく、生きる糧になり得るもののように

思えたからである。

一つだけ。

ーーーひとが本当にわが身に刻まなくてはならない言葉はきっと、そう数多くはない。私たちはあるとき、一つの言葉を心にうつしとるのに、少なくない歳月をささげなくてはならない事も、そのことを証ししている。多くの言葉を求めてはならない。切実な言葉を探せ。自らの魂を目覚めさせる幾つかの言葉を探せ。ーーー

 

ここにあれこれと引用するのもあんまりなので、

あとは、こちら↓で若松英輔氏の今日(8月20日)のツイートを

じっくり読んでいただきたい。

twitter.com

 

では、これらの言葉を噛みしめて眠ることにしよう。

眠れそうにないけれど。

おやすみなさい。

 

「輝きたくない!」

8月10日の西日本新聞経済電子版に、

「輝きたくない!」ってタイトルのコラム

(記者:下村ゆかりさんによる)を読んで、ほほぅ…と思う。

 

全部読むには登録が必要なので、途中までしか読んでいない。

しかし、400字に満たないほどのその途中までのコラムで、

あぁ、同じように考えている人もいるんだなぁとホッとする。

全文、読みたいなぁ。

 

途中までで良ければ、こちらで読める↓

qbiz.jp

 

「女性が輝く社会づくり」っていうスローガンみたいなものに、

違和感を覚える。

ここで、「女性が」ってわざわざ謳わなきゃいけないの?

輝くって、どういう状況を指しているのだろうと、考える。

私は、上の子が幼稚園を卒園するちょっと前まで、

専業主婦をやっていた。

そのあとは、家族が寝ている間にできるからって、

朝刊の配達を6年ほどやったのだが、ほぼ、10年間は専業主婦だった。

今は、そうは思わないが、専業主婦って、実に肩身が狭かったような

記憶がある。コンプレックスというか…。

女性の社会進出って、TVなどに取り上げられ、

それが、社会のあるべき姿って言われれば、

子育てしながら、社会でバリバリ働くお母さんという像とは、

ほど遠い自分って、なんなんだろうなぁと思ったこともある。

しかし…今はそんな風には思わない。

例えば、子育てに専念している人がいていいじゃないか。

逆に、結婚せずに働くって選択もあるでしょう。

家庭菜園に熱を入れる人がいてもいいし、

ボランティアで幼稚園や小学校に読みきかせに行くことを

生きがいにしてもいいじゃない。

みんながみんな、お金を稼ぐことを生きがいにしなくていいじゃない。

「貧乏でもいいから、ゆったりまったりした生き方をしたい」って人は、

そのままでいいでしょ?

庭の花の世話をしているときが一番充実してます

って人だっているはずだ。

わざわざ、「女性が輝く社会つくり」って目標を掲げているということは、

輝いていない女性が多いって、捉えられているんだな。

いったい、どういう生き方を求められているんだろう。

 

この、コラムにあるように皆が皆、輝きたいわけじゃない。

本当にそう思う。

静かに、穏やかに慎ましく暮らす日々に満足している人は

間違った生き方、みたいに聞こえるのが、嫌だなぁと思う。

 

また、

一億総活躍社会」っていう言葉も大変うさん臭く思うが、

新三本の矢って、

①希望を生み出す強い経済:GDP600兆円

②夢を紡ぐ子育て支援出生率1.8%

③安心につながる社会保障:介護離職ゼロ

らしい。

どれをとっても、ケッ!と思う。

結局、老若男女、障害者も、みんな自分で稼ぎましょう。

将来の年金制度を担う子どもを産み増やしましょう。

介護は一生じゃないから、介護が終わった後も働きましょう。

ってことかい。

年金を当てにせずに暮らせるくらい、蓄えといてね、ってことか。

 

出生率を上げることに目標値があるなんて、

国のために子どもを産んで育ててきたんじゃないし。

自分たちの老後を見てもらうためでもないんだよ。

 

総務省が発表している今年7月の概算値では

日本の人口は1億2699万人。

作家の平野氏も呟いていたが、

自分は、2699万人の中にいて、活躍する一億の中には

含まれないと考えておこう。

どうして、国が良しと考える生き方を押し付けられて

生きなければならんのだろう。

それが、輝く生き方だと、本当に思ってるんだろうか?

 

こういう政策を掲げられると、性というものを、

うまく利用されているように思うし、

いつまでも「女性が」なんて言ってるのって、

逆に蔑まれている感じがしてくる。

男性とか女性とか、いちいち出してくるな!と言いたい。

 

世の中、オリンピックで、ピッカピカに輝いている人が

わんさかテレビに出ているから、

余計に、全員がピッカピカなんてありえんでしょって思う。

メダルを取った選手なんか、メダルの数しかいなくって、

それ以外の人たちのことは、どうなのさ…と思う。

沢山の選手たちを、リオに送り込んでおいて、

勝手に期待させておいて、成績が振るわなかったら、

そういう選手はいなかったような扱いで。

輝いていないような錯覚に陥らせているのは、

マスコミもだけど、世間の人たちじゃないの。

 

暑いので、なんだか暑苦しい文章になってしまった。

処暑まであと五日なのに。

全くいつまでも暑いんだから…。