とみいよむよむにっき

本のこと、ベランダのこと、おはなし会のこと、日常のあれこれ。

流麗さ

さらさらと流れるような
のびのびとした美しさ
流麗な文章であることは、
読者を引き付ける一つの重要なファクターである。

では、その流麗な文章と言えば…どなたの文章であろうか。

以前、作家の原田宗典氏が若い頃、志賀直哉の文章を
原稿用紙に書き写していたということを、
何かで読んだ記憶がある。
無駄のない文章と高く評されていたようだ。

私は、志賀直哉の文章がことさら好きというわけではないが、
志賀直哉武者小路実篤とともに、
高校時代に淡い憧れを抱いていた小説家である。
文学少女ではなかったので、作家の文章の、
どこがどうであるなんてことは、全然わからないが、
その作品の持つ雰囲気が、なんとなく好きであった。
志賀直哉の文章は、無駄のない美しい文章だそうだ。
ま、理系の女だったので、文章の分析などは、
やったことがないので、その美しさを実感できたためしがない。

のびのびとした美しさというのは、
目で追った時の文字の並びのことを言うのだろうか?
それとも、口に出して読んだときの、その響きをいうのだろうか?

一人で本を読むとき、目で文字を追う。
一つの流れとしての文章を意識するのは、
心の中で声を出して読んでいる時のように思う。
しかし、黙読するときを思い浮かべると、
初読の場合、
文字を追いながら、一塊の言葉を頭の中に
イメージしながら、言葉どうしを関連付けて、
頭の中で、画が動いていくように思う。
あくまでも、私の場合は、である。

日本語の美しさと言う時、目で追うときとは別に、
文章を声に出して読むときの、読みやすさもまた、
日本語の美しさであると思う。
聴く方にも、耳に優しい、流れる音。
また、例えば、書などにも、日本語の美しさは
現れてはいないか。
日本語、漢字仮名混じりに、
例えば短歌、俳句を書にしたためる。
筆の動き、目で見る流れ、
これも、日本語の美しさであると言えないか。

で、何が言いたいかというと…
読む人の読み方によって、日本語の美しさというのは、
ポイントが違ってくるんじゃないかってこと。
何度も言うが、私はただの読者であって、
日本語を研究しているとか、文学者でもなんでもないので、
専門的なことは何にもわからないのだが、
読者というのは、その普通一般の人がほとんどであるので、
一般人に理解できる言葉が自然な文章であるように思える。
しかし、ここで、私はただの読者であると同時に、
かたりをやろうとしているものなので、
音にしたときの言葉の流れ、響きというのは、
大変重要なことである。
発音しやすさとか、逆に聴きやすさとか。
ただ、文章を読むという行為だけでも、
目で読む、声に出して読む、耳で聴くという方法がある。
これを、書くという行為にまで持って行くと、
ここにもリズムであったり、流れがあり、
深く突き詰めて行けば、紙の手触りや、ペンの流れ具合、
インク・墨の濃淡、その匂いなど
人間が、五感を働かせてこその美しさが現れる。

こうやって、パチパチとパソコンに打ち込む日本語の、
なんと無味乾燥なことか。

絵本や、物語を、誰かに読んでもらうことは、
その無味乾燥なものに、人間味を加えたものを味わう
ということであるなぁと思う。
イメージで描かれたものを、言葉にのせて、
まるで流れる音楽のように聴かせてもらえたら、
いつまでも、私の中に、その美しい日本語は残るだろう。
子どもたちの中に、残るだろう。
本を読めるようになることの第一歩は、
機械が出す音を聞かせることではなく、
人が生の声で、生きた言葉を伝えることだと
おっしゃっていた先生の教えが、
今、改めてそういうことなんだなぁと思えた。
本を楽しむということにも、いろいろあるなぁと思う。

志賀直哉の名前から漢字一字もらって
我が子(下)の名前をつけた。
父にそのことを話すと、
「なよなよってした子にならんかね?」
と、冗談だろうが、心配されたのを思い出す。
なよなよではないが、ちょっとよわっちい所があるのは、
志賀直哉のせいでは、決してない。
誰でも知っている小説家の一文字だから、
志賀直哉の哉です」と言えるな、と思っていたが、
今や、志賀直哉を知らない若者がいっぱいいるようで切ない。
木村拓哉の哉です」いやいや…それだけは勘弁して。